・太平洋を白く染めた漢・・・(1) | 日本哭檄節

日本哭檄節

サミュエル・ウルマンの『青春』の一節、
≪ 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。≫
こそ、人生の糧(よすが)か・・・!
既に古希寸前に達した今こそ、この言葉に励まされながら、さあ、もうひと踏ん張りしてみるか・・・(笑)

 久しぶりの『指活』である・・・(汗)

 永田町のチンドン屋騒ぎなどドッシラケで面白くもおかしくも無い目下のジジイは、前にも載せた

『余所者、異郷土史研究・・・』

に没頭中で、中でもこの人物に首ったけ・・・(笑)

 


(画像は、農林省・美土里ネットサイトより拝借]

 

 名を『坂元源兵衛さん』と仰るお方で、生れは江戸時代最後期の『天保11[1840]年』のお生れで、あの明治維新[1868年]の時には28歳の青年期だった計算だが、翌明治2年、薩摩の西郷と大久保に、隣親藩(=都城県)の初代地頭(=知事職)に命じられた『三島通庸』に眼を着けられ、住んで居た薩摩国境の西嶽(たけ)村田野から、三島が都城統治の拠点にした庄内村に家族で強制的に移り住まわされ、以降、大正5[1916]年(=77歳で没)までの半生を、その庄内の道路基盤整備や開田、教育環境整備に奉げ尽くした人物で在られる・・・!

 

 そんな源兵衛さんの獅子奮迅の活躍を綴れば、

『面白い話だらけ・・・』

で、このモノ好きジジイを虜にして離してくれないのだが、そんな逸話の数々の中でも、ジジイが特に惚れた話に、

『太平洋を白く染めた・・・』(=実際は、宮崎市を流れる大淀川河口までだが・・・)

と云う話(=チョッとオーバー?)が有るのだが、この話と仕掛けは、そのスケールから云っても桁違いに面白い・・・!

 

 因みに、この駄文を読まれる方は、源兵衛さんが手懸けた

『志和池(しわち)用水路開削工事・・・』

と云う話は、明治34[1901]年正月2日から約6カ月で完成させた『大掘割水路工事』なのだが、その志和池を流れる『丸谷川』が、太平洋まで続く本流の『大淀川』と交わる地点がら太平洋へそそぐ河口まで約30km以上を蛇行して降る大河川で有ることを、先ずは頭に入れて読んで頂きたい・・・!

 

 それに、こうした異変に、今の様に

『環境破壊だ・・・!』

なんて反対運動が起きるような窮屈な時代じゃ無かったから出来た話だが・・・!

 

(大淀川河口・画像は、miyazakikenhikkoshi.blog.jpより拝借)

 

 ご想像頂きたい・・・!

 この幅約500m~700mとも云われる大淀川河口が、薄っすらだったとは想うが、

『約半年間、一面白濁し続けた・・・!』

と云うのは、河口周辺で毎日この水面を眺めて来た住民たちにとっては、

『異常事態・・・!』

だったのでは無かろうか・・・?!

 

 然も・・・、その原因を噂に聴けば、

『上流(≒8里)の(旧)島津藩の山中から流した土の所為らしい・・・?!』

と聴いたのでは、

『一体、何ごとが起こって居るのだろうか・・・?!』

と想っただろうし、

『どれだけの土を流せば、ココまで流れて来るのだ・・・?!』

との怪奇を催したのは、想像に難くない・・・!

 

 そして・・・、その『怪奇』を起こして居たのが、この『源兵衛さん』と坂元家に家伝として伝わって居た

『薩摩・水流し工法・・・』

と云う、薩摩藩独特の『シラス台地』を開墾する土木技術だった訳で・・・!

 

 この特殊工法(=秘技)を持って居たから、薩摩から『初代地頭』として都城に赴任した

『土木大好き鬼県令・三島通庸・・・』

から強制的に庄内に召し出された訳で・・・(笑)

 

 ご存知無い方も多かろうから説明して措くと、我が故郷薩摩は、中央に、活火山桜島が燃え吹いた『火山灰』が県土全体を覆う『シラス台地』で、極めて痩せた土地なのだが、この活火山の火山灰の北東端が、この都城盆地の西側と境を接して居るから、そこの『行司(=見張り)役』だった坂元家も、この『水流し工法』で霧島山麓の丘陵地を開墾して、都城島津藩の藩士としては、地位は低くても財は結構豊かな家柄だったのだが、そこを三島に狙われたが故に、半生を庄内の発展に尽くす羽目に為ったのは、源兵衛さんにしてみれば有難迷惑だったと云えなくも無いが、130年が過ぎた今でも、その『名』を残して居るのは、立派な人生と讃えても良いのでは無いだろうか・・・?!

 

 オッと・・・、話が太平洋から大きく逸れてしまったが、話を戻すと、何故太平洋を濁らせるに至るまでの『シラス』を大淀川に流したかと云うと、答えは、この地図に在る・・・!

 ジジイが概略で描いた平面図で些か観難いだろうが、北西側の上流部を現在の画像で写せば、こう為って居る・・・!

 

 白い線で描いたのは、当時、源兵衛さんがこの工事の計画で描いた開削イメージで、此処は、最大24mの高低差が有る『台地(=谷頭)』の北側の低地で、此処の直ぐ近くを『丸谷川』と云う水源河川が流れて居るのだ・・・!

 

 この『丸谷川』からの取水に眼を着けた源兵衛さんは、得意の『水流し工法』で、高低差20m有る台地を『長さ約800m』に渡って開削し、都城盆地側の北西側に拡がる『志和池(=上・下水流)水田』に引水すると云う計画を立て、

『安永川(=現・庄内川)からの先行水利権・・・』

を有して居た志和池の住民たちからも了解を得て、谷頭までの新規用水路計画(=総延長約8km)に及ぶ大水路計画の工事許可を得て居た訳で、これを、後に、源兵衛さんの資金難で計画を譲り受けた『前田正名氏』は、

『開渠では金が掛かるから、隧道(=トンネル)工法で遣る方が善い・・・!』

と云う東京から連れて来た新時代の技術者たちの意見を入れて、この地の土壌を識り尽くした源兵衛さんが

『それでは、危なくて水路の管理が出来なくて志和池側との約束を果たせない・・・!』

と訴えるのを、自分も洋行帰りの官僚口調で

『田舎モノは、黙って居れ・・・!』

と云って決裂(=解雇)し工事に取り掛かった訳だが、いざ掘ってみたら、途中で水が湧き出て土止めに用いた松板が浮いて流され、土(=シラス)は崩れるわで大混乱に陥って、作業員は命からがら抜け出し、とうとう工事は中止に追い込まれるし、志和池側からは、

『代替え水路(=開渠方式)が出来なければ、谷頭(=前田用水路)の通水は認めない・・・!』

との訴え出て、八方塞がりに陥った前田氏は、源兵衛さんに

『オマエは、オレを騙した・・・!』

と短気を起こし、怒って工事を中止して東京に引き上げると云う事態に発展した訳だ・・・!

 

 さあ・・・、出資者の前田氏は途中で放り出して逃げ帰ってしまうは、志和地地区の水利権者は怒るは、水が来れば開田が適い

『やっと、お米が耕作出来て、収入が増える(=お米が喰える)・・・!』

と心待ちにして居た谷頭の住民は落胆する中で、東京の新技術者たちが、源兵衛さんの計画では、

『工事費9万円(=現在≒18億円)と工期3年が必要・・・!』

と出した見積もりを、源兵衛さんは、

『5,000円(≒1億円)と工期5か月で工事可能・・・!』

と云うのだから、そのギャップを聴けば、『騙された』と被害者意識に陥って居る前田氏の疑心は益々募るし、資金的窮地の中で、無理にも、その突破口の為の後見(=資金口聞き役)に立たされた

『時の外務卿・牧野伸顕(=大久保の次男・牧野家養子)や大久保利通の三男・・・』

などもこのギャップを信用せず、話は纏まらない・・・(笑)

 

 でも・・・、今や、遣らなければ『完全破産人』にされ素っ裸に為るし、遣って仮に上手く行けば、少なくとも谷頭通水が適い

『水利用金が取れる状態為る・・・!』

との賭けに覚悟を決めた前田は、遂に、明治33年12月に、

『源兵衛に賭けるしかない・・・!』(=3年も待てなかった・・・)

との決断を下し、庄内から急遽呼び付けた源兵衛さんの息子の英俊氏から、

『その代わり、お金(=資金)だけを出し、工法については一切を坂元家(=源兵衛さん)に任せ、口を出さない・・・!』

と云う約束を交わし、英俊氏は昼夜兼行で帰宮し、翌34年正月2日から父子で工事に着手したのだ・・・!

 

 と云ったところで、話はまだ戸羽口ですが、続きは別稿に譲ります・・・(謝&拝)