住友家のコレクションをもとに作られた泉屋博古館で、「特別展 没後100年記念 住友春翠 ―仕合せの住友近代美術コレクション」展が開催されています。

 

もともと別子銅山を出発点として財を成した住友家は、仕事柄古代の鉄製品こそ集めてきたものの(2010年ぐらいだったかこの美術館を初訪問したとき、鉄器だけがズラリと並んでいて唖然とした。来館者は週末午後だったのに数人だった記憶)、三井・三菱のような愛でるための美術品収集には頓着せず。

西園寺家から養子を取り、住友春翠が第15代当主となったときに一気に美術収集へと舵を切ります。

ただその後の当主で名前をよく聞く人はいないので、収集の趣味は、あとには続かなかった気がします。

 

 

今回はその春翠の没後100年記念展ということで、春翠の収集品やまつわる品々が公開されています。

過去、様々な切り口で行われた展覧会で目にしたものばかりでなく、初見のものもありました。

 

なかでも、こんなものが保管されていたのか、と思ったのが先日来触れている皇居外苑内の正成像の頭部原型です。

木製(檜材)で、楠木像の頭部担当だった高村光雲が作ったものです。

 

 

住友家に原型があること自体は不思議ではありません。

楠木像は、別子銅山開坑200周年事業として、住友家から宮内庁に献納されものだから。

当然のことながら別子銅山の銅を用いて鋳造され、明治35年1900年に完成しました。

 

 

 

 

 

この原型、予想以上に大きく、存在感がありました。

あれだけの高所(花崗岩の台座含め8m)にあるのだから、地上に下ろせばそのぐらいの大きさにはなるのでしょうが、サイズを実感しました。

 

さらに、兜の装着前なので、頭部は時代劇の役者さんがかつらをかぶる前のような状況です。

完成像では顔部分は兜で隠れているせいもあり、楠木像と聞いてイメージする顔の表情とはかなり異なっていました。

具体的に言うと、私の中では楠木像は俳優の山口馬木也さんみたいに顎がもっとシャープなイメージ。

ところが原型のほうは、威厳があるというよりは、意外に丸顔だったのです。

思い出しつつ原型の顔を書くとすると、こんなところかな。

 

 

 

 

それが兜を装着するとガラリと変わるんですね。

兜のせいで陰になって目元が見えないのが残念。

 

 


どの角度から撮っても顔がよく見えないなぁ。

 

 

 

完成像だと兜の下に覗いている髭が強調されるので、原型よりいかめしい表情になるのかな。

 

 


以下、パネルの説明で知った事:
 

本像は東京美術学校の職員総動員で製作したというもっぱらの話ですが、製作現場を生徒にも見学させて実地訓練として活用したそうです。

 

もとの図案は高村光雲が描いたのかしら、と思いきや、明治22年7月に宮内省の図書頭・九鬼隆一が図案募集をかけたとのこと。

 

結果、1333年、金剛山千早城で包囲戦を破った楠木正成が、隠岐の島から脱出した後醍醐天皇をお迎えする場面になった模様。

その後国学者、美術史家らが考証して、像の最終図案が完成しました。

 

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台座には、この像の由来が書かれています。

 

 

 

AIに読ませてみました:

私の祖先・友信が伊予の別子山の銅山を開いて以来、子孫がその業を継ぐこと二百年。亡き兄・友忠は国恩を深く感じ、その銅を用いて楠公(楠木正成公)の像を鋳造し、宮中に献上しようと願っていました。許可は得たものの果たせぬまま亡くなり、私がその志を継いで工事を監督し、鋳造が完成したので、謹んで献上いたします。明治三十年一月。従五位・臣 住友吉左衛門 謹んで記す。

 

あくまで参考程度に。

 

 

↓像が描いている場面:

 

 

 

ちなみに泉屋に展示されていた原型は木彫とは思えない色合いでした。

なんでも鋳造後、銅色に着色され、昔の大阪万博に出展されたそう。

右耳が欠けていて、その部分は木のささくれが露出していました。