「旋律とともに   前編」




 軽快な音楽。フォークとお皿が擦れる音。上品にざわつく店内。どこを撮っても絵になりそうな場所で僕は食事をしていた。大学からの友達である山田と。

「最近はどうなんだ。」

一口大に切ったステーキを口に運びながら彼は尋ねた。

「どうも何も、変わらない毎日だよ。」

そう言いふと視線をずらすと食事をしている夫人の奥にピアノが見えた。僕が少し心が揺らいだのを感じ取ったのか彼は言った。

「何かあったのか?その、なんというか、彼女のことで・・・。」

思い返せばもう5年も経ったのか、彼女と出会ってから。

 彼の言った彼女とは彼氏彼女のような簡単な関係ではない。しかし僕と彼女はどこかで通じ合っていた。しばらくの間同じ部屋に住むことで。


彼女と出会ったのは大学2年の7月。白黒の大学生活を送っていた僕に色がついた瞬間だった。クーラーのよくきいた部屋で授業を受け、ぼんやりと窓を眺めては漠然とした未来に対し何も行動しない自分に情けなくなっていた。教授の声とセミの鳴き声、プリントをめくる音が頭に鳴り響き、もう教室を出ようと立ち上がろうとした瞬間、

「君、山田のお友達だよね?」

と言いながら彼女は僕の隣に座ってきた。

「そうだけど、確か君は山田の幼馴染だっけ?」

山田から幼馴染がいることは聞いていたし、彼女は大学でも有名だった。モデルのような高身長に黒くて綺麗な長い髪。少しつり上がった大きな目は何人の男を虜にしたのだろう。構内を歩けば誰もが振り返る。僕を除いて。

「そう、その彼からあなたのことを聞いたんだけどお願いがあるの。」

これは驚いた。一生関わることのない彼女が僕にお願いなど。

「で、用件は何?」

彼女は大きな目を薄めながら言った。

「少しの間家に泊めてほしい。」

セミの鳴き声が響き渡り、もう教授の声など聞こえていなかった。少しの間時間が止まったかと思った。

「山田が彼なら信頼できるって。」

「確かに僕は今まで1人で生きてきたけど、だからと言って女性と寝泊まりできるわけではないよ。」

大学で唯一の友達である山田を除いて、僕は1人で過ごしてきたしこれが楽だった。孤独を愛しているのだ。

「だから残念だけど、他を当たってくれるかな。」

教科書をまとめ、暑さで空気が歪みかけている外に出る。紫外線が容赦無く降り注いでいる所を通らないよう日陰に沿って歩こうとした時、彼女は言った。

「じゃあさ、契約しようよ。」

「まだついてきてたのか、何を契約するの?」

彼女は口角を上げながら僕に言った。

「もし私を泊めなかったら、有る事無い事大学で言いふらすわよ。こう見えても私、友達多いんだから。」

有る事無い事ってまず何もないだろ。

「それって契約というより命令になってるぞ。僕に考える余地がないじゃないか。」

「そう、君に残された選択肢はYESか、はいよ。」

腕を組みながら自慢げに言った彼女と、僕は同棲することとなった。

汗がにじみ出る真夏の中、一方的な契約によって。


「あの子のことは関係ないよ。ただ、ピアノが気になっただけ。」

僕は視線を彼に戻し、少し微笑んだのちスープを口に運んだ。

「お前が彼女と出会ってからどこか変わったような気がしたんだよな。」

「そうか?そんな変わってないよ。」

「いや、今までは自分の話をしなかったお前が嬉しそうに彼女との毎日を俺に教えてくれただろ。」

「あれは彼女の生活がひどかったから愚痴ってただけだよ。」

表面上は笑ったが僕は少し悲しい気持ちになっていた。本当にひどかった彼女との非日常を思い出して・・・。


 彼女は何もできなかった。家事も料理も全くと言っていいほど。その上生活リズムもおかしく朝方に帰ってくることも不思議ではなかった。酒の匂いを纏わせながら部屋では踊り、僕に文句を言ってきた。あれがダメだの、こうしたほうがいいだの。はっきり言って最初は最悪の同棲だった。しかし時間が過ぎるにつれお互いのことを理解するようになり、徐々に非日常は日常へと変化していった。朝起きて、彼女がいて。テレビを見てる横に彼女がいて。

 そんな彼女だったが唯一できることがあった。それが「ピアノ」だ。夜、急に貰ってきたと言いながら電子ピアノを部屋に持ってきたときは驚いた。僕は風呂上がりで髪を拭きながら

「弾けるの?」

と尋ねると彼女は得意げに

「当たり前でしょ。」

と言い張った。まあ大して期待もしていなかった僕は冷蔵庫からビールを取り出し飲もうとした瞬間、彼女のピアノの音に呑み込まれた。背中から、手先から、いや全身から感じ取れる迫力は僕に鳥肌を立たせるには十分だった。

「ね、言ったでしょ。」

「驚いた、本当に弾けるんだな。どこかで習っていたの?」

彼女は僕のビールを奪い喉を鳴らしながら飲み干した。

「私のお母さんはね、ピアニストなの。」

空き缶を捨てながらどこか寂しそうな目をしながら言った。

「母子家庭で忙しいあの人から教わった唯一のことがこのピアノ。それ以外は何も知らない。口下手な人だから・・。」

「そうだったのか。色々な愛情の形があるもんだな。」

僕は冷蔵庫から2本目のビールを取り出し言った。

「それにしてもさっきの曲はなんだったの?」

「ショパンの『別れの曲』よ。私、ショパンが大好きなの。」

そう言いながらまたピアノを弾き始める。この時、僕の心は何か揺らいだような気がした。今まで経験したことのないような、何か。




続く。

 

 

 

 


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