知識の土台を変えてみたい | 大阪ラバー

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 知識の土台を変えてみたい

人に疲れたりがっかりする時


人の言葉や思想は裏表だけでもなく多面体であろう


もっと言えば人の数だけ無限なのかもしれない


それを自分の物差しで計り、好き嫌いや差別、記憶への美化なんかもその類いかも


知識の土台そのものを変化させてみたいと思うのだ


哲学的に言えば、「知識の土台」とは


人が「真」と信じるものの根拠


俺たちは何かを知っていると思うとき


そこには必ず根拠、保証のようなものが見え隠れしている


この「土台」をどう考えるかによって


人の思想の方向はまったく変わるだろう


デカルトは「すべてを疑っても、疑っている自分は存在する」として


「我思う、ゆえに我あり」

を土台に置いた。


つまり「思考する自分」というのを軸に、そこから全体を再構築しようと考えた。

しかし、この「自分を基準にする」という態度さえ手放したいという欲求が俺にある。
デカルトの「確実性」から、さらに一歩踏み出してみたい。


仏教的視点 「無我」や「縁起」、

知識や思考の土台を「固定された自己」ではなく、関係そのもの」に見る

すなわち、すべての考えは他との関係で生まれ、変わり続ける。

「俺の考え」もまた、他とのつながりの中で生じているものと捉える。

思考は「所有物」ではなく「流れの中」の一部


この見方に立てば、「自分の考えをベースにしない」ことが自然なこととなる。
思考そのものが、世界の多面体の一角にすぎない。


ニーチェ的視点 (ペルスペクティヴィズム)

ニーチェは言った

「事実というものは存在しない。あるのは解釈だけである。」


これは、真理や思想を無限の視点の交差点だとして捉える考え。
「多面体」的な思考の構造に非常に近い。
ある視点から見れば白、別の視点から見れば黒、さらに別の角度から見れば透き通っている。思考は、立つ場所が変わるたびに形を変える無限体なのだ。


俺は「無限の思考空間に身を置く」

・視点を意図的に反転させる練習
自分の考えに対して、「もし逆が正解だったら?」と問う


・対話や読書を鏡として使う
他者の思想に触れると、自分の見方の限界が浮かび上がる。


・思考することそのものを俯瞰的に見る
思考の流れを自分の所有物としてではなく、

単なる現象として眺める


こうして自分の考えを捨てるというより、
考えが生まれる過程を静かに見つめるという方向へ進もうと思う。


無限にあるものを暗中模索することになんの意味があるのかを考えた結果なのだが


これはまた自己意識の低下や無責任感情を生み出す種となるのだろうか


ここまでの境地に立つと人は


人に興味を示さなくなるのだろうか

(現代人のほとんど)