でもさ、
それって全部「思考」のお話だった。
つまりは、
自分の声じゃなかったと言うこと。
比較して
拗ねたり悲しんだり
怒ったりしてたのは
全部、思考がやってただけで、
「本当のわたし」じゃなかった。
「本当のわたし」は、
むしろ「へぇー
」って感じで
淡々と眺めてる感じだった。
この感覚をさ、
わたしは少しずつ育ててきたんだよね。
なんせ、
あまりにも感情的で
思考どっぷりで生きてたから、
そう簡単には
距離を置けなかった![]()
特に
焦りや不安の時に
思考に飲み込まれやすいから、
何度も何度も
飲み込まれては戻るを繰り返した。
思考ってさ、
こうして言語化をしたり
分析したり、ルールを把握したりと
社会生活の中で欠かせないものだけど、
支配されるものじゃなくて
あくまでも「使う」ものだった。
でも、
あまりにも今の社会が、
思考=自分だと錯覚してしまう構造だから
そんなの全然知らずに大人になってた。
子供の頃から、
他人と比較されて
優劣をつけられる世界が
「あたりまえ」だったもんね。
最近こそ、
この認識はだいぶ変わってきたけどさ。
高校を卒業するまで
昭和だったわたし世代は、
どっぷりと思考優位世界で育った。
ちょうど、
高校を卒業する年に平成になって、
個人事業主になった年に令和になった。
たまたまだけど、
わたしにとっての節目の時と
時代の流れも大きく変わってるのが
リンクしてる事に今気づいた。
ま、
どうでもいいんだけどさ![]()
![]()
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思考ってさ、
不安や焦りや比較や責めるという
自動思考的なやつと、
言語化、形にする、
社会ルールを把握する的な
本来の役割の部分がある。
で、
厄介なのは前者でさ。
心の病気とかにも
大きく関わってるんじゃないかと
個人的には思ってる。
あと、
認知症にも。
うちのお母さんは
同じことをグルグル考えて
ずーっと悩んでる人だったからさ。
今の高齢者に
認知症が多いのも
時代的になんかすごく
自己犠牲とか我慢をしてた人が
多そうだし。
そういうのって
すごく思考的な行動だなって思う。
だからさ、
たぶんわたしも
思考は自分の声じゃない事に
気付かずにいたら、
30年後に認知症になってても
おかしくなかったんだろうな、と
ゾッとした![]()
認知症って、
長年我慢をしてきた人が
ある程度の年齢になった時に
限界を迎えて発症するのかなって。
身体の防衛本能の1つというかさ。
人生の最後は
もう我慢なんかしたくない。
何も考えたくない!!!
っていう思いが
暴走した結果なのかなと、
お母さんを見ていて思った。
もちろん、
この解釈は
医学的根拠は1ミリもない。
わたしが
お母さんを見てきて
勝手に思ったこと。
でも、
あながちウソでもないような気がしてる。
そんな事も踏まえて、
思考との関係って
適切な距離感に戻すことが
すごく大事だなぁと思うんだ。
そう、戻すの。
だって、
最初は誰もが
適切な距離感だった。
それが、
成長するにつれ、
どんどん思考と同一化していった。
だから、
誰もが身体には
本当の自分の感覚が残ってる。
それは
自分の体感レベルでもあるし、
DNAレベルでもある。
縄文時代の人達は、
本当の自分が主導権を握っていて
思考は自然と使うものだったから。
わたしがさ、
縄文スピリットと出会った時に
ものすごい衝撃を受けたのもさ、
もう思考と同一化してる事が
苦しくて苦しくて
どうにか抜け出したくて、
もはや
本能的に「これだ!!!!!」と、
思ったからなんだとやっとわかった。
ネドじゅんさんの「右脳回帰」もそう。
全ては、
思考と同一化していたわたしから
思考を使うわたしになる為だったんだ。
四柱推命で自分を知るのもいいけど
知ってからが本番と思うのも、
ここに繋がる。
依存からの脱却もそう。
全部、
思考の洗脳から抜け出すことが
自分らしく生きるうえで
欠かせないからだった。
と、わたしは思うのよね![]()
とは言え、
オモロく楽しく生きたいだけなんだけど![]()
それを
思考ごときが邪魔してくんな!!
って感じ←
思考から自分を取り戻そうぜー
三浦明美

