【感動秘話】100年前、日本はポーランド孤児を救った | 新MUのブログ

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ましたが、各種事情により少しセーブします~♪

なぜポーランドは親日国?100年前の〝埋もれた歴史〟

 

一昨日、たまたま拝聴したニュース動画から、感動的な秘話を発見しました。福井県民の皆さんはご存知だろうと思いますが、殆どの日本人は知らないと思います。

 

メディアが積極的に報道しませんので、この件に関する記事もあまり見当たらず、「和楽webさん」からお借りしました。感謝申し上げます~お願い

 

100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語(2020/5/21  和楽web)

 

1940年、外交官・杉原千畝が発給した「命のビザ」を握りしめ、約6000人のユダヤ難民が福井県の敦賀港に辿り着いた。そこからさかのぼること20年前に、もう一つの人道物語がありました。

 

 

今からちょうど100年前の大正9年(1920)日本とポーランドを結びつける出来事がありました。ポーランドの人々が今もなお、日本に格別な思いを抱き続けてくれるきっかけとなった、知られざる日本人との交流の物語を紹介します。

 

★なぜ、極寒の地“シベリア”にいたのか?

 

ロシアのウラジオストクにいたポーランド人女性のアンナ・ビェルケヴィチが、日本の外務省に必死な面持ちで訴えてきたのが、大正9年6月のことです。

 

その頃、シベリアの極東周辺では、ポーランド人が「生き地獄」のような状況に陥(おちい)っていました。当時、シベリアには15万人から20万人ものポーランド人がいました。ポーランドといえば、東ヨーロッパの国です。

 

そんな国の人々がなぜ、アジア北部の酷寒の地であるシベリアに多数いたのでしょう。それはシベリアが「流刑の地」であったからでした。

 

★ロシアへの従属と流刑

 

ポーランドは10世紀の建国以来、苛酷な歴史を歩んできた国です。常に周辺の国から独立を脅(おびや)かされ、18世紀には大国のロシア、オーストリア、プロイセンによって領土が侵食され、なんとポーランドという国が消滅してしまいます。「ポーランド分割」といわれる出来事でした。

 

 

その後、ポーランドは形式的に再び独立国となりますが、君主はロシア皇帝とされ、ロシアに従属することが強いられます。これに対してポーランド人は何度もロシアに叛乱を起こしますが、いずれも鎮圧されました。

 

ロシアは反抗的なポーランド人を次々に国内から排除して流刑に処し、さらに流刑先で重労働を課します。その場所がシベリアでした。


★餓死か凍死が待つ「生き地獄」

 

ポーランドの首都ワルシャワからから東におよそ7,500km。冬には氷点下70℃を記録する場所もある酷寒の地、極東付近のシベリア。

 

ここに19世紀から20世紀初頭にかけて、ロシアによって流刑にされたポーランド人の家族、15万人から20万人が劣悪な環境下で暮らしていました。

 

 

やがて1917年(大正6)にロシア革命が起こると、内戦がシベリアにまで混乱をもたらします。ソビエト軍(赤軍)と反革命軍(白軍)がシベリア各地で戦い、ポーランド人たちもそれに巻き込まれていきました。

 

大半のポーランド人が家財産を失い、難民となって、凍土の荒野をさまようことになります。餓死、病死、凍死する人が続出しました。(中略)

 

★届かなかった嘆願

 

このあまりに悲惨な状況を見かねて、ウラジオストク在住のポーランド人たちが立ち上がり、1919年(大正8)に「ポーランド救済委員会」を設立します。

 

会長にはアンナ・ビェルケヴィチ女史(42歳)が、副会長には記事冒頭の「ポーランド国民は日本に対し、最も深き尊敬~」の言葉を残した医師ユゼフ・ヤクブケヴィチ(27歳)が就任しました。

 

シベリア出兵(1918年)

 

当時、シベリアにはアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そして日本が出兵していました(シベリア出兵)。ロシア帝国時代に諸外国から負った借金を踏み倒し、新たに社会主義国家を目指すと主張する革命政府を強く警戒したからだ。

 

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★アグネスより一言

レーニンによってロシアでは 社会主義の政府が誕生し、その広まりを恐れた日本やアメリカは「シベリア出兵」を行います。

 

 

そこで、シベリアに出兵する軍隊のために、お米がたくさん必要になると考えた商人たちは、お米を買い占めておき、高くなってから売って儲けようと考えたのです。

 

 

まるっきり、令和の米騒動と重なりますので、第三次世界大戦に自衛隊派遣等は織り込み済みだってことですよ。(終了)

 

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アンナらは出兵しているアメリカをはじめ、欧米諸国に働きかけ、孤児たちの窮状を救ってくれるよう嘆願しました。しかし翌年、欧米が支援する反革命軍の敗色が濃厚になると、シベリアに出兵している意味が失われていきます。

 

アンナら救済委員会の嘆願もむなしく、各国の兵は次々に本国へ引き揚げていきました。やがて兵を駐留させているのは、ロシアに近い日本だけになります

 

★頼みの綱は日本のみ

 

万策尽きたアンナは、日本に嘆願することにします。それまでポーランドと日本はあまり縁がなく、江戸時代にポーランド人神父が殉教したという古い記録から「キリスト教徒を弾圧する野蛮な国だ」という意見がありました。

 

一方で日露戦争の際、やむなくロシア軍に加わっていたポーランド人捕虜を、日本が厚遇してくれたという記憶もあったようです。いずれにせよ、もはや頼みの綱は日本のみ。

 

アンナは日本に赴き、外務省を訪れます。大正9年(1920)6月18日のことでした。


★異例の早さでの決断

 

要請を受けた日本赤十字社は、即座に理事会を開いて協議を重ねます。もちろん内戦が続いている場所での危険が伴う救援活動なので、軍の協力は不可欠であり、手間と莫大な費用もかかるでしょう。

 

しかし日本赤十字社は7月5日、児童たちの救援活動を行うことを可決。そして陸海軍それぞれの大臣の認可を受けた上で、日赤社長の石黒忠悳(いしぐろただのり)は、外務大臣にこう伝えます。

 

 

「本件は国交上並びに人道上まことに重要な事件にして、救援の必要を認め候(そうろう)につき、本社において児童たちを収容して給養いたすべく候」

 

救済の受諾表明でした。ポーランド救済委員会の会長アンナ・ビェルケヴィチが来日してから17日目のことで、異例の早さでの決定です。

 

アンナは驚喜して、この朗報をただちにウラジオストクに持ち帰ります。こうして孤児救出作戦が始まることになりました。救援活動は大正9年7月から翌年にかけて、第1回目が行なわれます。

 

7月22日、第一陣の孤児たち57人を乗せた陸軍の輸送船が、ウラジオストクから福井県敦賀港に到着。孤児たちは16歳から4歳までで、年長者が幼い子を親代わりになって世話をしていたといいます。

 

 

いずれも粗末な衣服にやせ細った青白い顔の弱々しい姿で、赤十字社の旗を見て、十字を切って感謝する子もいました。

 

その後もウラジオストクからの輸送は続き、計5回にわたり375人の孤児と、付き添いのポーランド人65人が日本に迎えられます。

 

敦賀に上陸した孤児たちは、関係各機関の協力のもと列車で東京に向かい、東京府下豊玉郡渋谷町(現、東京都渋谷区)の福田(ふくでん)会育児所に収容されました。(中略)

 

★特に急を要する孤児たちを

 

しかしシベリア各地には、まだまだ孤児たちが取り残されていました。ポーランド救済委員会の会長アンナ・ビェルケヴィチは、救出を待つ孤児たちがアムール、ザバイカル並びに沿海州各地方にも多数存在することを日本赤十字社に訴え、再度の救出を懇願します。(中略)

 

大正11年8月5日から27日まで、孤児たちは3回に分けてウラジオストクから輸送船で敦賀に運ばれ、さらに列車で大阪に向かいます。第2回目の活動で救出された孤児は最年長が15歳、最年少が1歳でした。

 

 

前回同様、彼らの衣服は粗末で、靴をはいていない子も多く、宿舎に着くと袖(そで)にお菓子がたっぷり入った浴衣と靴が支給されます。彼らの宿舎は大阪市が無料で提供した大阪市立公民病院(現在の大阪市立病院)の看護婦寄宿舎で、新築2階建ての洋館。建物は広く、前庭は広い運動場になっていました。

 

こうして第1回目で救出された孤児375人は東京、第2回目の390人は大阪に収容されることになります。

 

孤児たちは東京、大阪ともに、故郷ポーランドへの船便が準備できるまで、それぞれの期間(東京は約1年、大阪は1ヵ月余りで、時期が異なります)を、日本で過ごすのです。(一部転載終了)

 

参考記事(FNN)

 

 

ポーランド孤児から“兄”と慕われた外交官・野口芳雄

 

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