「AKIRA」から
≪黒い雪≫
「駅に通してください。切符は予約しているんですっ」
妊娠した若い妻を連れサングラスをかけたイマドキ風の若者が、殺気立った目をして突進してくる。モンクレールのダウンジャケットを着て、それなりに裕福な身なりだった。
「構内は危険ですから、いまはやめてください。しばらくここでお待ちください」「ウルセー、うぜーんだよ、兵隊さん!」
その若者が、スタンガンを使った。火花が散り、たまらず自衛隊員はうずくまる。
「どけ、どけ、どけ、おら、おら、通さんかい、おら!」
興奮した若者は、スタンガンをカチカチ鳴らしながら、自衛隊員のなかを突進して、次々と隊員を襲う。暴徒化した住民に対して銃口を向けることが正義なのかどうなのか・・・しかし、警察官職務執行法に基づく緊急避難の要件を満たすことは明らかだった。
バキューンという音とともに、八十九式小銃の弾が、若者の太ももを貫通した。しかし、次の弾は妊婦のおなかを直撃してしまった。若い二人はそのまま倒れ込む・・・自衛隊が一般市民に銃口を向けた最初の出来事だ。井桁原子力規制庁長官が陛下に述べた懸念が的中した。
「うぉーっ、自衛官が発砲したぞ、逃げろ!」
群衆が、今度は駅の出口を目指して逃げ惑う。つまずいて転んだ群衆の上を、遠慮も何もなく、うしろから来た群衆が踏みつけていく。入口の自衛官の前にスペースができたら、また斜めから群衆が殺到してくる。流血して倒れ込んだ二人の救助をする前に、群衆が二人を踏むつけていく・・・。
このように、首都圏の主要な駅や交通の要所の至る所で、正にパニックが発生していた。パニックを抑えるためには、一時的に軍に全権を掌握させること、いわゆる戒厳令を発することが世界の常識である。
官邸のオペレーションルームでは、爆発が起きた原発災害を指揮するよりも、むしろ首都圏のパニック鎮圧の方策に力点が移っていた。
戦争、内乱、恐慌、大規模な自然災害など、平時の統治機構をもって対処することが困難な非常事態には、国家の存立を維持するために、国家権力が憲法秩序を一時停止して、非常措置をとることが必要だ。この非常措置をとる権限が、国家緊急権として、諸外国の一部では憲法に明記されている。
しかし日本の場合、国家緊急権は、現行日本国憲法のもとでは規定されていない。災害対策基本法や、武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律などで、非常事態に公共の福祉の観点から、合理的な範囲内で国民の権利を制限し義務を課する規定が、個別に定められているだけだ。
たとえば災害対策基本法第109条第一項には、災害緊急事態に際して必要がある場合で、国会が閉会中であり、かつ臨時国会の召集を待ついとまがないときには、生活必需物資の配給、価格の決定、金銭債務の支払いの延期等を政令で定めることができる、そう規定されている。
しかしパニックの現実を前にしては、このような個別の規定は、まったく無力なものであった。平常時の想像力では予期できない出来事、それが次々起こるのが、まさに国家存亡の危機なのである。
(次回へつづく)


