以前、イタリアの保育園で
姫のお友達のイタリア人の男の子が、私に
「どうして姫ちゃんは黄色いの?」と聞いてきた。
後からそういう話を友人としていたら
「それは人種差別よ!
子供の頃からひどいわね!」と
怒ってくれていたけど、
私は、子供の好奇心っていうのは
もっと純粋なものだと思う。
そこから「これは人種差別だ」と
決めるまでには
慎重に「そうではない可能性」の方を
信じる傾向にある。
姫のお友達も、
ただ単純に肌の色が違うのは
どうしてか、知りたかっただけだと思う。
なので、まず、
「ねえ、黄色いものって何がある?」と
聞いてみた。
「バナナ」と即答。
「ねえ、バナナの色と
姫ちゃんの手の色は、同じかな。」
「違う。」
「じゃあ、姫ちゃんの手の色は
何色だと思う?」
「うーん、黄土色」
「うん、私もそっちの方が近いと思う。」
お友達、頷く。
「それでね、私の手はどんな色?」
「黄土色。」
「うんうん、それじゃあ
どうして姫ちゃんの手は黄土色だと思う?」
「ママが黄土色だから。」
「そうだね!
とってもきれいでしょ。」
「うん。」
お友達は納得したようでした。
これを「黄色」と呼ぶのは、
誰か大人が「あの色は黄色である」と
教えるからだと思う。
そして、「黄色と言われたら差別されている」
と思うのも、大人の事情だと思う。
現に、あれだけ人種も国籍も混ざっている
インターナショナルスクールで、
クラス替えで新しいクラスになった姫に、
「担任の先生、どんな先生だった?」と聞いたら、
「お顔が肌色で、髪の毛が黒い先生。」
と、言う。
単にその先生はどんな先生か、
見た目から説明しているに過ぎない。
白人という意味だと思うけれど、
「お顔が白くて、」とは
言わない。
だって、白くないもんね。
肌色だもんね。
色々な人種・国籍の人たちが
交流しあう環境に生まれた姫には、
何かあったときに
すぐに「だからxx人は駄目だ!」とか
短絡的に結論づけないような人に
育ってほしいな。