principle(原理原則・筋を通す)



白州 次郎
1902年2月17日
兵庫県芦屋市出身。実業家。


連合国軍占領下の日本で、吉田茂の側近として、日本国憲法誕生の現場に立ち会うなど、GHQとの折衝の矢面に立つ。
初代貿易庁長官を務め、吉田政権崩壊後は、東北電力会長を務めるなど、多くの日本企業の役員を歴任した。

一時は忘れられた存在であったが、1990年代前半頃から少しずつ再評価され各種メディアで取り上げらることが増え、21世紀に入ってからは多くの書籍が刊行されている。

1985年11月28日、83歳でこの世を去る
遺言状は、葬式無用 戒名不要の二行であった。



Birth ♯4(22,13)

22は、天と地の懸け橋となるマスタービルダーというカリスマナンバーである。
海外に縁のある数字でもあり、父の文平はハーバード大学を卒業し、ボン大学で学び
次郎自身は、ケンブリッジ大学に留学し、9年間をイギリスで過ごしました。
戦後は、得意の外交能力を活かして、希望を失った日本をいち早く復興させるべく、高い理想を持って、現実社会での大きな事業の取り組みに挑みました。
13のカルミックナンバーは、破壊と創造を繰り返し、常に学びを喚起させられる厳しい数字とされ、障害の度に修練を経験し、カルマの負債を清算することになります。
神戸一中に在学中に、理由は定かではありませんが英語教師を殴り、退学処分となります。
学校側からは、卒業扱いにするかわりにもう来ないでくれと言われるほどの不良生徒でありました。
退学がきっかけでイギリスに留学することになり、その後の人生に大きな影響を与えます。育ちの良さからか、苦労をした印象はあまり感じられませんが、経験を力に変えていった事は間違いないようです。
真面目でコツコツタイプの4という数字をもちながらも、生涯を通じて安定性を求めることなく常にアグレッシブにチャレンジを続けた事が彼を成功へと導いたのでしょう。
一方で、頑固で細かい特徴もしっかりと持ち合わせており、晩年に勤めた軽井沢ゴルフクラブの理事時代には、会員以外にプレーをさせる事を決して許さず、田中角栄首相の秘書が、「今日、田中がプレーさせてもらいます」と挨拶に来た時も、「どこの田中だ!?」と一蹴し、中曽根首相のSP達は、ゴルフ場の外から双眼鏡で監視せざるを得ない状況に追い込まれるなど、頑なで一本気な性格は、良くも悪くも白洲次郎を白洲次郎として作りあげた一因でしょう。



Destiny ♯3(12)

華やかで、社交的な特徴の3を持つ次郎らしく、神戸一中時代には10歳年上の宝塚歌劇団の女性との間にロマンスを育むなど青春時代を謳歌します。
後の妻となる正子は、それが原因でイギリスに島流しにされたと思っていたようです。
そのイギリスケンブリッジ大学に留学した次郎は、生涯の友となったロビンと共に仲間ら「オイリーボーイ」といわれるほどに車にのめり込み、ベントレー、ブガッティ、ランチアなどを埃まみれになりながら、ヨーロッパを旅して廻ります。
旅の途中では、ライカで撮影した風景が今も残されており、多趣味で好奇心に満ちあふれた学生時代を楽しみます。
背広の語源となっている、セヴィㇽロウでスーツを誂えるなど、オシャレにも気を遣い。
「ヘンリープール」というお店に今も残る顧客資料によると、吉田茂と次郎でイブニングジャケットなど、各自で6点注文しており、現在のレートで総額200万円くらいになる
そうです。
ダンディーで、ジェントルマンと呼ぶにふさわしい格好と生き方は、このイギリス時代に培われました。
また、「日本で最初にジーンズを履いた男」と言われており、疎開先ではジーパン姿で農作業を行い、モンペ姿の周りの人たちからは、奇異な目でみられていたようです。
晩年には、親交のあった三宅一生のモデルを務めるなど、交友関係も広く、生涯を通して遊び心を持ち続けました。
12という数字は、コラボレーションナンバーと言われ、次郎も政界財界の多くの人たちの中で常に人と関わりあって大きな仕事を成し遂げてきました。
そんな中でも一番のコラボレーションは、随筆家として名を馳せることになる、正子との結婚ではないでしょうか・
思ったことは、どんな相手に対してもすぐ口に出してしまう二人の性格上、激しくぶつかることもあったようですが、正子の仕事には一切口出しをせず、彼女がいないときは自分でトーストを焼きコーヒーを淹れるなど、妻を暖かく見守っていました。
後に夫婦円満の秘訣を聞かれた次郎は、「一緒にいないことだ」と語っていますが、お互い仕事に打ち込み。干渉し過ぎなかったことが良かったのかもしれません。




Soul ♯1(10)

カルミックナンバーである10は、一般に恵まれた環境で育ち、苦労の少ない人生を与えられる。
次郎の祖父は、三田班の家老で福沢諭吉とも親交のあった家系であり、父文平は綿の貿易
商として成功を収めました。
神戸一中時代からアメリカの車を買い与えられ、イギリス留学時代には、一度の送金で今の価値で二千万単位のお金をもらっていたようです。
次郎は、そのまま大学院に進み学者になることを夢見ていたようですが、10番の持つ人生のある時期に全く別の道へ変化する場合が多くみられるとおり、文平の会社の倒産に伴い日本への帰国を余儀なくされました。
帰国後、次郎は1という数字が持つフロンティアスピリット、行動力、決断力をいかんなく発揮します。
GHQ相手に一歩も引かず、自己主張を繰り返して「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめました。
天皇陛下からのマッカーサー宛てのクリスマスプレゼントを持参した次郎は、「その辺に置いてくれ」と言われ、激怒します。
「陛下からの贈り物を、その辺とは何事だ!それならば、持って帰る!」と言い放ち、マッカーサーが慌ててテーブルを用意させたのは、次郎らしいエピソードです。
また、頭の切れた次郎は戦前から、戦争になれば必ず日本は負け、食糧難になると予測して、鶴川村(現在の町田市)にて、畑を耕し野菜を育て始めます。
近所に住む子供たちを集め、得意の英語を教えたり、手品師を呼びクリスマスパーティーを開くなど地域に早く溶け込もうと努力を重ねます。
五反田に住む友人夫妻が、爆撃で家を消失した際は、何日もかけて二人を自宅まで連れ帰り、二年近くも同居させました。人道的な目的で人に癒しを与える数字である10と、活発で行動力溢れる1の特徴がよくでています.
ソウル数は、根源的なレベルで望んでいることで、本人も自覚していない場合があるようですが、男らしく情熱的でリーダーシップに溢れるエピソードに事欠かないにも拘らず、長官や会長を務めた際も最初は依頼を固辞し、後々この人の為ならば仕方がないと引き受け、自分のやるべき事が終わったと見るや、すぐにその座を退いた辺りのはそのためなのかもしれません。



Personality ♯2(11)

マスターナンバー11は、最初2を経験し徐々に11に変容していくといわれています。中学時代はサッカー、イギリス留学時代はラグビーに打ち込み、自分の孫にも、若いうちは団体競技をやりなさいと常々言っていたようで、人との関わりの中で得るものの大きさを次郎が自身の経験を通してがよくわかっていたのでしょう。
ある程度の年齢になってからは、ゴルフにも興じるようになったようですが、一人でもプレー出来る為、「あれは、モテないやつがやるもんだ」と言って若い頃は敬遠していたようです。
権力者には立ち向かい、弱い人間を助けるというヒーロー像を地で行くようなタイプの次郎は、生涯を通じてみてみても、1の男性的な独立性を持って、周囲の人を巧みにリードしていき、2の女性的な協調性でもって周りからの信頼を得ていったように感じます。
東北電力の会長時代には、自分自身でランドローバーを運転し、サングラスに長靴姿で現場に入り、仕事が終わった後には、作業員と一緒に酒を飲み、現場での苦労話を聞いては、時に涙を流していたようです。
また、理事を務めていた軽井沢ゴルフ倶楽部では、ボールをキャディーに取りに行かせようとする客に対して、「自分で打ったボールは、テメェで取りに行け!!」と怒鳴り飛ばし、ボールが顎に当たり怪我をしたキャディーさんには、噛むことが難しいだろうと思い自らスープを作って自宅まで届けたそうです。
次郎の死後、何年もあとのインタビューでキャディーさん達は、「従業員をとても大切にしてくれた人だった」と、みんなが涙ながらに語り、次郎を偲びました。
これらのエピソードからも、次郎の男らしい強い部分と女性性の持つ優しさが伝わってきます。
圧倒的な力を持ち、時には強引に事を進めることもあったようですが、決して独りよがりにはならず、細やかな気配りを持って、人間関係通して培ってきたものが、彼の人間としての大きさや魅力につながっていったのではないでしょうか。




Realization ♯7

次郎自身もよく口にしていた言葉で、彼を語るうえで代名詞とも言えるのが、「principle」である。
日本語に訳すと、原理、原則という意味ですが、本人は「筋を通す」いうニュアンスで使っていたようです。
常日頃から、プリンシプルを自らの生き方の指針とし他者にもそれを要求しました。
心理への探求を追い求める7という数字を実現させるべく奮闘します。
政財界に幅広い顔を持つ次郎のもとには、菓子折りに札束を忍ばせて通う人間が多数いたようですが、全て持ち帰らせ直接顔を合わせる事もなかったようです。
自分に厳しい7という数字を持つ次郎らしい話です。
しかし、他人にも厳しい一面もあったために、特に家族は苦労をしたようです。
特に軽井沢ゴルフクラブ時代にそれを如何なく発揮してしまい、次郎が怖くて直接言い返せない客たちは、彼の息子や娘にねちねちと文句を言ったようで、それが原因で子供たちは今でも一切ゴルフをやらないそうです。
どんな偉大な人物にもやはり欠点はあるものです。
こういう部分も持ち合わせていることを知ることで、少し親しみやすさも感じました。
また40歳そこそこで、当時勤めていた会長職をあっさりと捨て、田舎に疎開しましたが、世俗からの離脱には至らず、「カントリー・ジェントルマン」として、農作業をしながら中央の政局に目を光らせました。
多くの経験を重ねた事で視野が広がり、たくさんの人と交流を重ね、会得したものを世の為人の為に広め、人々の心を豊かにする事ができた、人生だったのではないでしょうか。




・Stage ♯4
Birthと同じく4で、規律、秩序を重んじる彼らしいナンバーで、コツコツと地道に正義感を存分に発揮して、現実世界という舞台に置いて活躍をしました。

・Challenge ♯9
愛と理解力を持って穏やかに人類愛を実践することという、9のMissionを見事に成し遂げたのではないでしょうか。
晩年は、細かい事をあれこれと注意するうるさ型のジジイと陰口を叩く人もいたようですが、これも大きな規模で愛というものを捉えた故のことではないでしょうか。



TypeⅡ
・Creation 6
完璧な均衡と美。
身長180cmで堀の深い顔立ち、80歳近くまでポルシェを乗り回し、誂えたスーツにヴィトンのトランクを持ち腕時計はロレックス。
好きなお酒は、シングルモルトのスコッチウィスキー。英国時代を通しての生涯の親友ロビンから樽で送られ多ものを愛飲していた。白洲個人で輸入もしていた。
自分自身にも他人にも「principle」を課し、見た目も内面も見事なまでに完璧につくりあげた。
一方で、従業員を大切にし、お手伝いさんが連れてきた孫を可愛がるなど、そこはかとない温かさも持ち合わせていた。
 



History

0~32歳  ・Cycle  2  ・ Pinnacle 1  ・ Challenge 6
1921年 19歳 (Year Cycle 14) 神戸港から客船で英国へ渡る
1928年 26歳 (Year Cycle 21) 実家の白洲商店倒産に伴い、日本へ帰国
1929年 27歳 (Year Cycle 22) 樺山正子と結婚

ケンブリッジ大学時代に知り合い、一生を通じて親友となったロビン。
樺山伯爵家の娘、正子。
この2人を通して、愛と平和を学んでいく。


33~41歳 ・Cycle   8   ・ Pinnacle   2   ・ Challenge  5
1943年 41歳 (Year Cycle 18) 鶴川村の茅葺き屋根の農家に転居

第二次世界大戦真只中、現実的に社会情勢を捉え疎開し、変化することを恐れずに村の人達とも積極的に交流を持ち、受け入れらていく。


42~50歳  ・Cycle  8    ・ Pinnacle   3   ・ Challenge  1
1945年  43歳 (Year Cycle 20) 終戦連絡中央事務局参与に就任
1946年 44歳 (Year Cycle 21) 日本国憲法制定作業に立ち会う
1948年  46歳 (Year Cycle 23) 第二次吉田内閣、初代貿易庁長官に就任
1951年  49歳 (Year Cycle 17) 東北電力会長に就任
1952年 50歳 (Year Cycle 18) 軽井沢ゴルフ倶楽部理事に就任


戦後の日本が全てを失った状態から新しく種をまき、国の再生に向けて人々に明るい光を

与えることに精力をかけて取り組んだ。


51~83歳  ・Cycle 3  ・ Pinnacle   5   ・ Challenge  1
1959年  57歳 (Year Cycle25) 東北電力会長退任
1966年  64歳 ( Year Cycle23) 赤坂にマンションを建て、二人の息子夫妻と暮らす
1985年  83歳(Year Cycle6 )体調が悪化し自ら病院に行き、その二日後に亡くなる


晩年は、軽井沢ゴルフ倶楽部で自ら芝の手入れを行い、従業員の生活、会員の行儀まで管理し、英国風のゴルフクラブにして人々に喜びを与えられよう、尽力した。
家では、孫を駅まで迎えに行くのを何よりも楽しみにし、いつもより帰りが遅くなると落ち着きなくうろうろしていたという。






卒業レポートの対象者がなかなか見つけられない時、数秘クラスからの帰りの新幹線に雑誌がありました。
その中のコラムに、白洲次郎のファッションについて書いてありました。
10年以上も前に本で読んだ人。
何故読んだかも、今となっては思い出せない人。でした。
が、その名前を見た瞬間にレポートはこの人しかいない!と思い、やっと見つられたことに安堵しました。
最初の印象は、只々カッコ良くて、自分には無いものを持っている憧れの世界にいる人でした。
しかし段々と調べていくうちに、自分が当初感じていただけの人ではないと感じるようになりました。
正義感に突き動かされ、大きな目的の為に自分を犠牲にはせずとも、捧げることが出来る人。
世間に何も恥じることなく、堂々と人の為になれる気概を持った人。
それらを、誰にも称賛されずともこっそりと出来る人。
むしろ、さらっとそれを成し遂げることが、本人にとっての美徳であることに。
自分もそうありたいと、感じている事に気付けたレポートになりました。


Reported by AIONS Numerology Basic the 13th class
Ryuta Kitade at Jiyugaoka class.