頤和園 万寿山 後山 | ザスタのクマさん

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あらゆるアート、デザイン、 特に写真が大好きなクマこと熊谷の作品集。

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頤和園の代表的な風景 広大な昆明湖、

そして、一昨晩のブログアップした万寿山、『前山』

本日は、その万寿山の北側『後山』と呼ばれるところをとりあげてみます。

 後山は、ほとんどチベット寺院で占められています。

頂上から北側に降り始める。

A
撮影 熊谷

チベット仏教寺院の最高傑作『サムイエ寺』(現在のチベット自治地区北部)を

模したという建築群にぶつかる。

B
撮影 熊谷

そこから先は、漢民族とチベット族の建築様式を融合させた

建物が目に留まり始めた。


撮影 熊谷

それにしても相変わらず色彩がすごい。


C
撮影 熊谷

降りきったあたりで、木々の間から、後山にある寺院の

全容が見えてきた。

D
撮影 熊谷

そして、ほぼ全景を眺めると、まるでチベットにいるような錯覚さえ覚える。

E
撮影 熊谷

ここで、もう建造物は終わりかと思い、出口に向かえば、

運河沿いにかわいい 家々を見いだす。

F
撮影 熊谷

少数派の中国、東北部に居住した満州族が、

その人口の大半であった漢民族をおさえ、清帝国を建国した。

満州人の歴代皇帝は、まずは言葉に始まり、

漢民族が多数をしめる多民族国家であるこの国の統治にかなり苦労した。

特に、もっとも栄えたと言われる乾隆帝存位の時代に、

この頤和園は作られるが、テーマは多民族国家の園であった

官職や要職の半数を他民族の人々に任せ、

特にチベットにおいては、チベット仏教による政治の安定を願い

この園にチベット寺院を建立した。

また、彼はチベット仏教に帰依し、仏教徒達を手厚く保護し、

堪能なチベット語を話した。確かに濃密な外交関係があったようだ。

満州族とチベット族、同じ少数民族同士が協力する事によって

多数派の漢民族を牽制したのかもしれない。

現代のチベット問題の原点がこの頤和園に見えてくる。

 乾隆帝は中国の清朝第六代皇帝。

姓は愛新覚羅、名は弘暦。諡は純皇帝。廟号は高宗。

1711年生、1799年没。在位は1735年から1795年まで。

乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが

十全武功(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる10回の外征である。

ジュンガル、金川、グルカに2回ずつ、

回部、台湾、ビルマ、安南に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、

自分を十全老人と呼んだ。

しかし、晩年、乾隆帝は老害ともいうべき治政を行うようになり

耳ざわりのよい奸臣ばかりを寵愛し、汚職が蔓延し政治権力がその中枢より腐りかけ、

清帝国の繁栄も陰りを見せ始めると、チベットとの関係も冷えてくる。

 頤和園は1860年の第二次アヘン戦争で英仏連合軍に破壊されてしまったが、

その後、西太后が海軍の軍費白銀3000万両を流用して、

避暑宮として再建、名を現在の頤和園と改めた。

しかし再建された頤和園も1900年の義和団事件の際に

北京に闖入した八カ国連合軍により徹底的に破壊されてしまう。

その後1903年に西太后により再度再建され、

その時のやや小さな規模のが今日まで伝わっている。

 しかし軍国主義だった頃の日本もかなりひどい事を中国にしたが、

当時の欧米列強政府もひどいものだ、いまさら彼らがチベット問題を口にしても

素直に聞けない現中国の事情も少し分かる気がする。

清が滅んだ時、チベットは独立を宣言するが、欧米列強は承認しなかった。

1950年に英国のチベット進入を継起に

中国人民解放軍はチベットに軍事介入し、チベットは制圧された。

 私、個人はチベットの独立、もしくは大規模な自治に大賛成だが、

これ以上書くと、中国輸出向け商品の広告を作っている

都合上というか、会社が潰されかねないので、本日はここまでということで。




熊谷