いっときの寒さに較べ幾分麗(うら)らかな日の光が、華やぐ春の到来さえ感じられる一方、コロナや花粉等の諸懸案事項も未だに混在し、まだまだ油断も出来かねる昨今ですが、フォロアーの皆さま お変わりないですか?
このコロナは、もう1年も長逗留しているのですね。そろそろ飽きてきたな。
想えば1年前だったな、あれは……。
その頃の対コロナ拙ブログが出てきましたので本題に入る前に、暫時振り返ってみましょう。
さあ、今年は東京五輪!と日本中が湧いていたあの頃、突然、黒船を想起させるクルーズ船からの災禍に、当初たかがインフル程度とたかを括っていた日本国民でしたが、世界中から刻々と入る報道に戸惑い、困惑し、鳩が豆鉄砲を食らったように思考停滞にあって、正確な情報が少なく流言飛語が飛び交い、疑心暗鬼、暗中模索の中、それぞれが感染拡大防止対策を進めていたものですが、次第にその実態が収斂され対策も整ってきたきたようです。
手洗い、消毒、うがい、3密自粛、マスク、会呑食制限、飛沫回避、過労注意。
それで、必要に応じてマウスシールドとかフェイスシールド着用も。
問題は、手洗い、消毒、検温して着席しても多人数の会食で、アルコールが入ると自然と大声になり、それがマスク越しの会話ならまだいいのだが、多人数の場合裸口だと飛沫が遠くへ飛ぶ。そうして抗体を持ってない者に感染させ、それが家庭内感染のもとになるので、帰宅したら手洗い、消毒、検温の3必をし、3密を避ける。
と言うのが、ワクチン徹底普及までの新型コロナウイルスの基本対策のようです。
ただ私に言わせるとそれだけで充分とは言えない。
それらは守りの盾であって、矛先でなくても健康を考えれば、禁煙・快食・快眠・快便・快動は必須。
多少のインバル(インターバル・トレーニング)、負荷をかけてウオーキングしないと自然循環が滞ってしまう。体力が落ちると、気力も萎え、病は気からで、くだらんことをクヨクヨ考えがちになり易い。
と言う事ですが急激に無理な負担は控え、各個の体質に合わせ少しずつ負荷を愉しんでみましょう。
さて以上はコロナ禍など煩わしい些事。
が、ここからは、禍福は糾える縄の如し。
災い転じて福と成す。災禍は一切蚊帳の外、圏外に追いやり、臥薪嘗胆、耐雪梅花麗し、心頭滅却すれば火もまたすずし、の無心の境地、即ち明鏡止水になぞらえて、粛々淡々着々と国民の昭和史検証を進めて参ります。
さて本日は、第8集と相成りますが、1937年(昭和12年)から1940年(昭和15年)の間、国民スポーツ・文芸活動や娯楽などはどうであったのか?
それぞれの切手に凝縮されている奥行きを観とおしながら、あれこれ自由なイマジネーションで昭和史を振り返ってみましょう。
なんだか地味というかレトロ感がいっぱいで、眠っていた血のDNAが郷愁を呼び覚ますかもしれませんね。
先ず外国のご婦人と古い型の飛行機、そして野球選手と相撲取り、さらに棟方志功の絵が目に飛び込んできましたが、それはこの時代の現象でしょうか。
解説文を読んでみましょう。
①ヘレン・ケラー女史初来日
1937年(昭和12年)、ヘレン・ケラー女史が初来日した。
同女史は生後19か月で熱病のために目、耳、及び言葉が不自由になったが、家庭教師のアン・サリバン先生とともにそのハンディキャップを克服し、障碍を持つ人々に希望を与えた。
日本へは合計3度訪れ、障害者の福祉向上のために全国を回った。
映画「奇跡の人」も公開されたし、舞台公演も幾度か上演された。
② ③ 神風号・ニッポン号飛行成功
米国ライト兄弟の初飛行から30余年後、リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行から10年後の1937年(昭和12年)、朝日新聞社所有の純国産機「神風号」は、東京(立川飛行場)~ロンドン(クロイドン飛行場)間で全飛行距離1万5,357kmを、実飛行時間51時間19分23秒で飛行した。
また、1939年(昭和14年)には、毎日新聞社所有の純国産双発輸送機「ニッポン号」は、羽田空港から東回りで5大陸20ヵ国を所要日数56日、実飛行時間194時間で回る世界一周飛行の壮挙を遂げた。
④千人針・国民帽・モンペ
1937年(昭和12年)には、戦局の厳しさから赤紙(徴兵)で出征する兵士の無地を祈り、千人の女性が一人一針ずつ縫う布「千人針」が流行った。街頭で協力を請う女性たちの姿が見られるようになった。
1940年(昭和15年)には、国民服令より、戦時下の男性用服装として「国民服」が制定された。
また、女性用防空服装として「モンペ」が普及した。
*この当時の事を現代風リアルに知りかければ、いい本がある。荻原浩の「僕たちの戦争」だ。
私はこの本を読んで霞ヶ浦を取材した。
土浦駅で。でもモンペは穿いてなかった。今頃どうしてるかな?
戦局が危うくなってくると予科練では、空や海で特攻訓練を実施。
⑤「路傍の石」山本有三
初版本表紙と肖像
1937年(昭和12年)、作家山本有三の小説「路傍の石」が新聞に連載され、逆境をはね返して生きる少年像が好評を呼んだ。
その後、新聞から雑誌へと連載の場を移し、最初から書き直されるが未完のまま1941年(昭和16年)8月に「新篇 路傍の石」が刊行された。
*名言「たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない人生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」で有名。
⑥映画「愛染かつら」
ポスターの題字と一場面
1938年(昭和13年)、川口松太郎原作、田中絹代・上原謙共演の映画「愛染かつら」が公開された。 桂の木がキーワード。
この映画は、あらゆる困難を乗り越える二人のメロドラマで、爆発的な人気を集め、レコード売上げ120万枚を記録した主題歌「旅の夜風」とともに、人びとの心に潤いと安らぎを与えた。
⑦横綱双葉山の69連勝
土俵入り姿のイメージと当時の番付表
1939年(昭和14年)、第35代横綱双葉山が69連勝の偉業を達成した。
⑧沢村栄治投手
沢村賞でお馴染みの沢村栄治投手は、柔軟で華麗なフォームから繰り出す快速球と大きく落ちるドロップで、草創期の日本プロ野球を代表する投手となった。
同投手は最優秀選手、最優秀勝率、最優秀防御率などのタイトルを獲得し、1940年(昭和15年)には3度目のノーヒット・ノーランを達成するなど大活躍した。
⑨誰か故郷を想わざる(楽譜表紙)
1940年(昭和15年)西条八十作詞、古賀政男作曲の「誰か故郷を想わざる」が霧島昇の歌でレコード化され、大ヒットした。
故郷への思いを切々と歌ったこの歌は、海外の戦地へ赴いた兵士たちから圧倒的な支持を受け、その後国内でも流行した。
⑩棟方志功の活躍
鐘渓公「唐衣の柵」・棟方志功
版画家・棟方志功は、版画は板のいのちを掘り起こすことと言う考え方から「版画」と書き表し、その信念を持って大胆率直に表現した傑作を次々と生み出した。
棟方志功の作品は、普遍的人間感情の表出として国際的にも高い評価を受けている。
シート余白部分:沢村栄治投手
【感想】
どれも奥が深い偉業であるが、これが戦時中でありながら、その苦しさをものともせず、それぞれがそれぞれの道で最善を尽くしたことが、今回の特色であろうと想われる。
(吟)





