”高島平・板橋ウオーク” with プロの下調べ | 地球の日記☆マーク♪のblog☆

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常に夢を持って波に乗ろう!

来月12月7日は「TOKYOウオーク’19 第5回大会高島平・中山道宿場町コース」が開催される。

 

 

ただ歩くだけでは単なる平面運動にすぎず、歴史を掘り起し、好奇心や知能も活性化すれば、ウオーキングを2倍楽しめるのではないか。

温故知新、俯瞰的知力・体力向上の時空立体ウオークで、ウオーキング人口のすそ野を広げたい。

そして高齢者医療費抑制や健康不老長寿社会に繋がっていけば、健全健康意識で、この国はもっと未来に対してポジティヴに好転していくのではないだろうか。

「目を覚まして、できること、やるべきことをやって、時を待つ」  

 

オラッ、ボケーッとしてんじゃあねーよ!

 

失礼しました。……そうやって喝を自他共に入れたところで、アプローチから本題に移行してまいります。

それでは、今度の会場の下調べから入ります。

今大会の出発が、「高島平」(板橋区北部)と、この入り具合はまるで明治維新の幕開けのような出です。

その地名の由来となった近代日本の先駆者、高島秋帆(たかしましゅうはん)ですが、そこから始めてまいります。

 

彼は江戸時代後期・長崎の有力者で、砲術家のレッテルが貼られておりますが、当時(1840年ごろ)、英国が阿片戦争で清(中国)領香港島を奪った植民地政策に、長崎で世界事情に通じていた高島秋帆の憂国の士の血が日本の危機を感じ、武力の必要性を説き、また私費を投じて実践した時の人でもあります。

 

さて、当時その実践を披露した地は、地形的にこの辺は徳丸ヶ原といって荒川河原や沼地で、そこに秋帆は九州長崎から、大砲4門・鉄砲50丁、弟子百名近くひきつれて本陣は万吉山秋月院にとり、当時徳丸ヶ原といっていたこの地にやってきました。

そして幕府の江川太郎左衛門や鳥居耀蔵らの前で、実弾射撃や、軍隊調練及び射撃訓練を実施して、保守的な幕府要人らを驚かせた。

 

ファイル:Takashima Shuhan gunnery demonstration 1841.jpg

 

明治維新の起因の一つに、招かれざるペリー黒船来航(1853年)があります。

米国から来るだけならまだいいのですが、ボンボン艦砲空包射撃をやって威嚇し、開港、条約を迫るものですから弱体化した幕府にとってはたまりません。

 

有効な対応策もなく統率力も乱れ、無能な将軍や大局の読めない大奥の意向を取り入れるなど、だらしない幕府に水戸学徒や、貿易で財政豊かになった薩摩などからの糾弾、有力各藩大名からも侮りを受けての窮余の粛清が、逆に反感を呼び倒幕へと向かい、そして長州戦争で幕府敗退、西郷隆盛や龍馬らの薩長同盟などで一気に形勢逆転。

 

徳川家康以来260有余年の幕藩体制を維持してきた幕府でしたが、兵器や士気に劣り長州戦争で破れ、潮に呑まれるように江戸城開城してから、天皇を中心とした太政官時代に移っていく。

そうして明治維新、近代化日本の先駆けとなった高島秋帆の名をとって徳丸ヶ原を「高島平」として後世に残した。

 

その後、高島平は広大な田んぼで名を馳せたが、水質などから水田耕作に不適となり、折からの住宅難から、やがて大マンモス高層団地となる。

が、のち住民以外の者が来ての飛び降り自殺が増え社会現象となり、今では防止策が行きわたって殆ど自害不可能となっている。

 

また、2.8万世帯、約5万人。こうした核家族化にあって暇を持て余す団地妻をモデルとした日活ロマンポルノ「団地妻」シリーズも、娯楽の副産物として世間を愉しませてくれてもいる。

 

 

と言ったところで、次に歩を進めていくと、荒川戸田橋緑地、その向こうに戸田橋が見えて来る筈である。

そう、荒川の向こうは、埼玉県で、僕の気に入ってるコがその戸田に住んでいるという。……まだ行ったことはないが。そのうち行ってみたい。

 

 さて、今回もBコースを歩かせてもらうので大回りはせず、戸田橋の手前で右折する。西台辺りで4,5kmか。まだ1時間も経たない。

そして川越街道を右折。赤塚を北上する。

 

えっ、なんだ たったこれだけ?11kmじゃ、2時間でゴールしてしまうので物足りない気がする。

だから、できるだけのんびり、あちこちのコンビニに寄ったりして、飲み食いおしゃべりしながら楽しく歩きたい。

 

ほんとはね、板橋宿とか歩きたかったんだよね。

あそこは江戸四宿と言って、品川宿(東海道)、千住宿(日光街道)、板橋宿(中山道)、内藤新宿(甲州街道)のうちの一つで、江戸時代の日本橋から高崎、木曽路を通って京に上る中山道の初宿でもあった。

 

幕末、新選組になる前の浪士隊として、250名ほどの浪人を徴集して、将軍警護の名目で江戸から中山道を通って京へ上った記録もある。この中山道は東海道五十三次より多い、六十九次で、普通二週間弱の旅程のようであった。

 

今の広い中山道の東側に旧中山道があって、下宿(平尾宿)、仲宿、上宿とあり、金沢の加賀藩が参勤交代のとき本陣、脇本陣を利用したとある。また加賀藩下屋敷もあってそれにちなんだ地名も今に残る。

 

  文武両道の老中役

 

いや、加賀百万石だけではないな。

仁孝天皇の娘で、孝明天皇の妹でもある皇女和宮の降嫁行列もあったな。

その行列は10月20日に京都を出発し中山道を江戸へと向かうのだが、当時の物騒な尊皇攘夷のなか、護衛だけではない渡し人足など2万人以上が動員され、入りきれない人馬宿の手配など、諸事通行する各藩の協力が欠かせなかった。仮旅籠などで対応したとある。およそ二か月12月11日江戸城に入城したとある。

 

 

さらに板橋宿には「縁切榎」という、公武合体婚礼行列には相応しくない地元特有言い伝えの樹があった。

この木の下を通ると必ず不縁になるという言い伝えがあり、天下の皇女和宮の行列が、徳川家に降嫁するのに迂回する訳にもいかず、……そこで「縁切榎」を菰ですっぽり覆って何事も無かったように通ったという、信心深い日本人を代表するようなお話だ。

そもそも何故、縁切り榎なのか。

 

調べてみた。

板橋区教育委員会が編纂発行している「(文化財シリーズ第98集)板橋区の歴史と資料ー宿場の町並みと文化財ー」にはこうある。

 

「享保撰要集」に、下板橋宿の岩坂に榎(えのき)と槻(つき)の木があり、この榎・槻・岩坂の組み合わせから「えん つき いやの坂」と呼ばれるようになり、当時はDVでも妻の方から三行(みくだり)半を突き付ける事も出来ず、縁切寺に駆け込むこともせわしなく、手っ取り早くこの榎で縁のつきとし、こうして縁切りの願掛けをする者が後を絶たず、更にエスカレートして、この樹皮を削いで相手方に何食わぬ顔で煎じて飲ませるという荒業まで出てきたので、代々の榎には、樹皮を削られて見るも無残で痛ましく、たいそう迷惑な迷信であったようでもある。

一種の有名税か、それにしても榎の災難。榎自体そういう狂信者とは縁を切りたかったに違いない。

 

そのほかこの近辺の隠れたる名所に、「板橋」の名の由来となった板ではないコンクリートの板橋がある。

日曜教会ではなく日曜寺もある。水村玄洞旧居跡は、「夢物語」の著者・高野長英をかくまった医者の医院跡。あと、新選組局長の近藤勇の墓もある。

二造の跡地はカーバイトの生産地で明治9年に火薬製造。名前の由来は、昭和15年に「陸軍東京第二造兵廠」となり、通称となった。

 あと、おもしろいとこで、人はよく「立場」と言う言葉を使うが、ここにその原型があった。

これは「江戸東京文庫⑦江戸四宿を歩く」にこういう記述があったので紹介しておこう。

 

「立場

 人馬が休憩・待機したところで、人足が持っていた杖を立てかけて休んだ場所という意味からこう呼ばれた。」

 

ほうー、立場が無い。などとは、こういうところから来ていたのか……。

 

 

以上、大会本番前のリハーサルでした。

 

                          公認スポーツリーダー:吟