東京のお台場は誰がつくったのか?
この8人か?
いや、昨日はそんな風なフォーラムではなかったような・・・・・・。
正しくは「明治150周年記念 薩長土肥フォーラム」~近代日本の礎を築いた人・風土・文化を知り、未来を拓く~
と題して昨日7日東京ビッグサイト国際会議場で行われたフォーラム(*国際フォーラムと混同しないように) の一コマだ。上の写真は。 順を追って解説しよう。
りんかい線で国際展示場駅から
向こうにCXの観覧車が見える。
そうして歩く事7分。
ビッグサイト国際会議場が見えてきました。千人入れるそうな。
内容は薩長土肥各藩の知事とその県出身のAKB48各一人の二人ずつがパネル(パワーポイント)を使ってお国自慢、PRをするわけだが。
なかには県のイベントを紹介する場面で・・・・・・。
「では踊って見せてください」という昨夜の酒が残ってる司会のアドリブでこーんな格好して踊って盛り上げる一幕も。ちなみに後ろで法被を着て踊っているのは鹿児島県知事。
これは長州組
で、これは土佐勤王党。
で、右側の二人が肥前代表。
佐賀県知事がPRコーナーで「江戸のお台場は肥前佐賀藩がつくった」と仰られていたが、どうも違う気がする。確かに肥前の鍋島家で作った大砲はお台場の上に据えたが、お台場をつくったとなると別だ。杭にする木材や巨石、砂利を手配してこなければならずそんなに簡単ではない。
肥前佐賀藩鍋島家は地の利で長崎から蘭学などの外国文化が入り、砲術や銃砲の製造法も入手できた。もともと鍋島というから、鍋、釜の鋳鉄職人は大勢いた。そこへ反射炉の技術輸入でアームストロング砲やCanon砲の鋳造技術も入り当時の武器製造では国内最先端だったはず。
然し1853年ペリーが黒船を4隻引連れて浦賀に来航し、一旦引き上げたがその後が大変だった。来年また来るぞ。と言い残して。
それから遡る事10年以上前の1841年、外国の大砲の威力を長崎の豪商・高島秋帆が江戸郊外板橋・徳丸ヶ原(のち高島平)において林大学の子息で当時要職にあった鳥居耀蔵や伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍ら幕閣が見守るなか制服調練された肥前佐賀藩士たち塾生に対し号令操練して実弾射撃演習を披露した。その時の地が割れ空気がビリビリ震え、耳をつんざく轟音と共に着弾の破壊力はそれまでの丸玉の比ではなかった衝撃体験が江川太郎左衛門の危機感を煽った。
当初、江川太郎左衛門は千石船の何倍もある黒船に江戸城に近い江戸湾に入られたらどこにでも接岸、上陸されるので水際作戦として浦賀・上総・安房の湾口に砲台を設置して湾内入港を食い止めようと幕閣に建議書を上呈。
しかしペリー来航当時(1853年6月3日)の将軍は第12代の家慶で黒船に衝撃を受けたか6月22日に早々と無責任にも薨去(61歳)してしまう。
残された土井利位、阿部正弘ら幕閣は保身優先し江戸湾は遠浅だから近場、江戸城の前面にズラーと砲台を並べればよかろうと内海御台場築立御普請(お台場建設)奉行に先ず材木石奉行(材料の用立て)から作事方、普請奉行までに目配りできる鳥居耀蔵を責任者とし副に江川太郎左衛門を置き、来年まで突貫工事を施工した。これにあたっては江川は多分、肥前佐賀藩のノウハウを用いたのではないかと思う。諫早湾など満干の差を利して暦から満潮時を割出し、引けたら準備していた大石等をポイントに注入。遠浅の地の利を活かしたお台場建設であったように思われる。
そこへ肥前佐賀藩で鋳造した大砲を千石船で肥州から品川沖まで海路搬送した。
したがってお台場は誰がつくったの? ということになれば、ここは映画と同じように製作者より直接の現場監督である天領韮山の世襲代官・江川太郎左衛門ということになろう。
今のお台場は砲を備えたガンダムがニラミをきかしている。 ダイバーシティ(多様性)の守り手として。














