本を読んでいたら……。
インスピレーションとでもいうのでしょうか
あっ、そこ。行ってみたい。と、思ったことはありませんか?
まるで縁のパワースポットに吸い寄せられるかのように。
グルメ番組はあまり見ませんが、たまに品のいいドラマや旅行パンフに気の利いたキャッチフレーズが重なって記憶に残っていると、いつとはなしに五感に効いているんですね。
ふっと自分の中で都合のいいイメージがいつのまにか醸成されて今の自分に必要な自然のアクションだと理性に要求してくるからたまりません。
食う事とSEXと同じようなもので、活きるために必要な創作業務運営活動。ランニングコストのようなものですか。
いい音楽。 いい本。 ヘルシーな食べ物。 いい仲間。 いい女。 そしていい仕事。
人間性の向上を求めて前進または停車を繰り返す欲望という名の電車。
懐かしいですね。テネシーウィリアムズの戯曲「欲望という名の電車」。
ひところワークショップでよく公演されましたが、難しかったでしょうね、演出も。
洋画ではスタニスラフスキーSの流れを汲むアクターズ・スタジオのマーロン・ブランドが汗臭く演じていましたね。
その後、同じエリア・カザン監督の「波止場」では血が通ったというか魂を込めた演技をして勇気を与えてもらった記憶もあります。
効果的にそのいいとこ採り。いい映画、いい本、いい音楽などに巡り合えるのはどうすればいいのでしょう。
運というか、焦らずあまり欲張らないことではないでしょうか。機が熟すまで。
今にして思えば、いかに目先の欲望を抑え、広角的かつ中長期的視野に立って物事を見据えられるかでしょうか。
磨かれた本物志向の美的感性と研鑽培った良識という判断力は、本人の心がけ次第。
といってしまえばそれまででしょうが、DNA遺伝子がらせん状になっているのと同じで、同じように見えて実は諸行無常。
つまりまだまだ改善・進化の余地、可能性はあるということ。
落ち着いて目を凝らし、耳を澄ませば違いに気づくはずです。一芸に秀ずれば百芸に通ず。
自然に対しても人間に対しても、ついつい怠りがちになりやすい謙虚と感謝の気持ちを正月こそ新たに再認識して、とりあえず先ず12か月健康に、倖せに暮らせますようにと我我の心の中にある神性や善性とのお約束だと私は思っています。
そしていつかは自らの使命に目覚める時が来るでしょう。
それまで人間生活を楽しみながら健康的な知性、感性、体力を鍛錬するしか今のところ答えがでてこないのが正直なところ。
というなが~い前フリがあって、福岡にとんで、とんぼ返りしてきました。
博多はラーメン屋さんが多いな。それも競い合ってるが、私には何がどれほど違うのかよーわからんたい。
で、上記のタイトル「本を読んでいたら……。」に入ります。
何かの縁であったか城山三郎氏の「落日燃ゆ」 ~一章~ 出だしにこうある。
「 福岡市の中心部、県庁に近い一画に、こじんまりした天神様がある。水鏡神社、水鏡天満宮ともいう。・・・・・・」
その本の中に、当時小学生が毛筆で書いた額縁「天満宮」という文字のくだりがある。(その小学生が後に日本の首相になるのだが・・・・・・)
こういう現実とフィクションの境目にある小説は浅田次郎の本だけではない。
いかに虚構と現実のせめぎ合い、出し入れの競い合いも野球などと同じで攻守攻防がある。
事実だけで全て語れない。主観による錯覚や客観的事実と現実の間の線や面をどう繋いでいくか。
そこを自ら高めた人間性あふれる想像力でどう穴埋めしていくか。
普遍的な価値観として後の世まで称えられるかどうかの違いのひとつに、もし~真実の愛を得れば成就・昇華し、人間の生き方として万民に共鳴・共感を得られるのではないだろうか、という仮説をたてて本を読み進めていくのも一つの方法論ではなかろうか。
起承転結、喜怒哀楽の人生ドラマに読者を惹きこむリアリティの魔力。
それには核となる本ネタを仕込んでおく必要があるでしょう。
それはこの本(「落日燃ゆ」)の場合、現存する現物(のちに首相となる子供が書いたとする書を石に彫った神社の額縁)に時間と人道という魔法の意志に通ずる石であることが礎となっているところに堅実な種を仕込んだのではなかろうか。
Where there is a will, there is a way. (精神一到何事か成らざらん。意思あるところに道開く)
確かに、現場に飛んで実地検証した限りでは文字「天滿宮」の変遷、経緯に歴史的重みを感じ、時の総理大臣になる人物の小学生時代に書いた当時の素直な書であると認めざるを得なかった。
現在の状況からくる証拠としても、周囲は近代化のビル波のただ中、そこだけびくともせず護り通す意志の強い信仰の高さと、地に根を張った不動の支持の強さがそれを雄弁に語っている。
いや、私がパワースポットと感じたのはそれだけではない。
その水鏡神社の大きくはない浅い池と大きな錦鯉の群れ。
どう表現したらいいのだろう・・・・・・。
鈍重で粘りのある水質、それでいてどこまでも観透せる澄んだ水を湛えた黑緑の苔に縁どられた池に、何百年も棲息する山椒魚のような大きな錦鯉の群れが優雅にまったりと水面上の人間どもを品定めしているかのように尾をなびかせて間合いをはかっているようにも映った。
冬特有の澄んだ重そうな池の水の中を、緋鯉が人なつっこい純真な目をして袂に近寄ってくるではないか。
池の水の清清しさといい、天真爛漫な鯉の目といい心が洗われる気がした。
明鏡止水とはこういうことも指すのか。
一言。 いやされた。
水鏡。まさに然り。
水がこいを育て、人を育てるのか。
鯉に恋してどうする。
いやこの鯉はその当時の鯉ではなかろうが、遺伝や伝統は受け継がれてきているであろうし、周囲がそう神秘的に形成していくこともあるでしょう。たとえば冬には餌をやらない躾をしてあるとか。
それにしてもこんなに立派に堂堂と優雅に自然に遊泳している鯉は初めてだ。
躾とか育て方、そういう内面的美徳は無形文化財産として残し受け継がれていくべきだと私はおもうが如何。
ANA
HYATT REGENCY
SUIKYO SHRINE WITH CARP
~ Fin ~