夏休みも終わりだというのに
長女(小3)が
自由研究の発表の仕方がわからない
と、言ってきた
見てあげるよ、と言って風呂から出たら
長女は呑気にYouTubeを見ていた
そこで強烈な怒りが湧いてきた
私に丸投げして言われた通りにすればいい
そう思っているのが
透けて見えるようだったから
そこで、なんで私はこんなに
不快に感じているんだろう?
そう思った
子どもがちゃんとしないと
親の私が責められる
子どもが不出来なのは親の責任
そういう概念が自分の中にあるのを
ひしひしと感じた
これってめちゃくちゃ
大きな世界の中の小さな私の視点から
外側の世界を見ている感覚だ
これ、違うじゃん
"はじまり"の視座じゃないじゃん
と、ここで
感情がすぐに収まるわけではないので
こんだけネットを普段から使ってるんだから
発表の仕方くらい自分で調べてな
と、言い捨てて
私は関与しないことにした
夏休みの間、私は子ども達の宿題を手伝ってきた
やれやれ!と声を掛けてきた
今なら思う
子ども達の貴重なレッスンの機会を
私は奪っていたのだ
発表がうまくいかないかもしれない
宿題をやらなくて先生に怒られるかもしれない
友達の中で気まずい思いをするかもしれない
でも、それは私のレッスンではない
子ども達自身のレッスンだ
それに、子どもの勉強や学校の成績は
私自身の教育の成績とは
全く別のものだ
それが、
子の成績=親の評価
この概念があるから
責任がとっても重く感じていたのだ
でも、わたしが世界で世界がわたしなら?
はじまりを思い出すなら?
はじまりがこの世界を作ったのなら?
この世界を作ったのがわたしなら?
はじまりが人間の私をやるなら?
別に全部どっちでもいい
手伝っても手伝わなくても
子の成績が良くても悪くても
どっちだっていい
どっちを選んだって
わたしの存在が脅かされることはないし
わたしは消えない
わたしの世界は壊れない
そんな感覚になったら
身体が軽くなった感じがした
視界が広がるような感じがした
そして、長女は自分1人で取り組みはじめた
お〜!
無限チャンス!!!
1mm戻れたかもー!!!
