こんにちは!
日本の四季と和文化を
大切にして暮らしているCraneです。
東日本大震災から10年となりましたね。
息子が11日の夕方にテレビを見ていて、
「どのチャンネルも震災のことだよ」
言っていました。
ちょうど10年だからね~と
私も画面に目を向けると
今から津波の映像が流れます
と注意書きが表示されていました。
7歳の息子は
津波を見たことがありません。
見たら、大きなショックを受けて
夜泣きするんじゃないか?と気になって、
「今から津波がテレビにうつるよ。
怖くない?見て大丈夫?」と聞きました。
「うん、見る。今日学校で、
東日本大震災の黙祷したもん」
と答えた息子。
もうだいぶ大きいのだけど
抱っこしながらふたりでテレビを見ました。
私も津波の映像をまじまじと見るのは、
ずいぶんと久しぶりで、
見始めてすぐに喉が詰まる感じになり
泣きながら見ました。
息子は泣きませんでした。
ただ、呆然と見ていた。
私たちが住んでいるのは神奈川県。
家のすぐ近くには川も海もないけど、
必ずしも家で被災するわけではない。
神奈川は海に面しているし、
大人になったら、川や海の近くで
生活することになるかもしれない。
大きな地震の後は津波が来る。
すぐに高いところへ逃げると
覚えておかないといけないよ
と話をしました。
3.11のことを
発信するつもりはなかったけど、
テレビの映像を見ていて、
一瞬のうちに
私の3.11のことも思い出しました。
あの日、
機転をきかせた人がいたおかげで
私はとても助けられた。
書き留めておくことにします。
10年前の3月11日。
私は東京都心にいました。
着物で外出していました。
神奈川からバスと電車を乗り継いで
着物学校に月2回通っていました。
着物で通学する学校でした。
朝、髪型を整え、着物を着て
出発時間に間に合うように支度するのも、
電車に乗ったり食事をしたり、全てのことが
着物を着ることと、立居振る舞いの
訓練になるという学校の方針でした。
15時終了予定で、3人一組で白無垢の
着装実習をしていた時に地震が起きました。
教室は和室で、
背の高い家具がなかったのは幸いでした。
畳にはいつくばって
大きな揺れがおさまるのを
待つしかできませんでした。
先生は練習用トルソーを倒して支えていた。
震度5強だったと思います。
着装実習のモデル役は着物の下着姿になって
行うので、実習用の着物を脱いで、
自分の着物を着ないと帰れないんです。
日頃から、数分で着る練習をしていたので、
突然の地震の恐怖と落ち着かなさの中でも
すばやく着替えられました。
練習用着物と道具を協力して片付けて、
先生にご挨拶して学校を出ました。
神奈川から通っている人は私だけで
いつもひとりで帰っていたのだけど、
「今日は一緒に駅まで行こう」
と誘ってもらい、
確か7人で駅まで向かったら
電車はすでに運行停止。
「動くまで長く時間がかかるだろうから、
ゆっくりお茶でもして待とう」
と言った人がいて、皆で行ったのは、
徒歩圏内にある5つ星ホテルでした。
この機転に、その後とても助けられます。
ティールームは満席。ロビーで
待たせていただくことにしました。
数時間経ったら帰宅できると思ってたけど、
深刻な状況だとしだいに伝わってきて、
今夜はここで過ごすのだと覚悟しました。
ホテルの部屋をとることはできず、
売店の食品は完売でした。
着付けの時に使う衣装敷き(着物を汚さないために
床に敷いて、この上で着物を着たりたたみます)
実習道具として数名が持っていたので、
ホテルロビーの床に敷いて
座って一夜を明かすことにしました。
生粋の東京人の友人が
「この辺り分かるから、食べ物買ってくる」
と買い出しに行ってくれました。
コンビニは食品が売り切れていて、
ようやく買えたのは
コージーコーナーのシュークリーム。
シュークリームひとつが夕食でした。
ホテルがロビーに設置した大型画面で
津波の映像を見ました。
この世のことと思えなかった。
ホテルのスタッフさんは、
ロビーにどんどん増える避難者を
受け入れるのに奔走していました。
備蓄の食品とペットボトルの水を配って、
寒くないですか?
バスタオルをひざかけにしますか?と
声をかけてくださったり、
宴会場の椅子を運んできて
自由に使えるようにしてくださった。
非常事態に際しても落ち着いていて、
機転をきかせて動いてくださった。
都心勤務の夫の携帯に連絡しても
全然つながりませんでした。
そのうちに充電が少なくなり、
コンシェルジュコーナーで
充電してもらいました。
嫌な顔なんて一切しないで、
颯爽としていつも通りの
品格あるご対応でした。
こんな異常事態でも変わらずにいることに
ほっとさせてもらったことを覚えています。
遠隔地の実家とは連絡がつき、
実家経由で夫の無事を確認して、
翌朝ロビーで合流することになりました。
この老舗ホテルのロビーには
立派なシャンデリアがあり、
余震のたびに大きく揺れました。
その近くには居ないようにしました。
壁にヒビが入ったところもありました。
重厚なロビーには
絨毯が敷き詰められていたので、
床に座ってもそれほど冷たくなかった。
大理石の床だったら冷えただろうな。
ホテルのトイレは通常通り流せたし、
このホテルに居るということで
それなら安心だ、いいところに避難したと
家族はとても安堵していました。
(最初は、避難のつもりはなかったけど)
ひとりじゃなくて、着物学校の友人と
一緒だったので情報交換もできたし、
不安に押しつぶされずに済みました。
電車が止まっていた時点で、
この5つ星ホテルへ行こうと
機転を利かせてくれた友人のおかげで、
不安や不便は少なく一夜を明かせました。
翌朝、会社から歩いてきた夫と合流できて
心底ほっとしました。
駅構内に入るまでも、
ホームまでの階段でも、
長蛇の列に並び続けて
何時間待ったか思い出せません。
ホームでも何本も電車を見送って、
ようやく次は自分たちの番となったときに
横入りして突き飛ばして乗り込む人がいた。
人の醜いところを見て、
余計に気持ちが落ち込みました。
ものすごいぎゅうぎゅう詰めで、
車内は殺伐としていました。
マタニティマークをつけている人がいると
分かっていても何もしてあげられなかった。
私たちも押しつぶされていて、
立っているのがやっとだった。
多摩川を越えて神奈川に入るまでも長く、
電車に乗っている時間が
とてつもなく長く感じました。
最寄駅とは違う駅で降りました。
義母が機転をきかせてくれて、
「ごはん作っておいてあげるから
寄りなさい」と言ってくれたのでした。
夫の実家で
塩むすび🍙と豚汁をいただき、
あたたかい食事が五臓六腑にしみ渡って、
こんなにおいしいものがあるのかと
感じるほどでした。
10年前の3月11日は金曜日でした。
自宅にたどりついたあとは、
土日は勤務がない夫と
とにかく眠ったように記憶しています。
数日後にご近所さんとばったり会い、
大丈夫だった?と聞かれました。
「私もね、あの日は東京にいたの。
腰痛治療の名医の診察日で、
家に帰れなかったわよ。
避難先で近くにいた女の子が、
岩手県の海沿いの子でね。
たまたま東京に遊びにきていて。
自分の家がどうなっているか
分からないと泣いているのを見てたら、
放っておけなくて、
うちに来ない?って連れてきたのよ。
駅までお父さんに迎えにきてもらって、
2晚泊めて、
お金を少し持たせてあげた。
帰れただろうかねぇ…」
あの日、機転をきかせて動いた人が
ここにもいました。
一昨日のテレビを見ながら、
ご近所さんの家に泊まっていた人は
今どうしているのだろう?と思いました。
こうやって振り返ってみると、
機転をきかせて動くということが、
非常事態にはとても重要だと感じます。
でもね、誰もがすぐできることではない。
普段言われたことだけしていたり、
なんでも人任せだったり、
物事を深く考えないのを続けていたら、
咄嗟の判断なんてできない。
毎日の積み重ねによって
機転をきかせることができるようになる
のだと思います。
災害への備えかたはたくさんありますね。
目には見えない備えも
非常事態にとても大きな働きをすると
感じたので書きました。
3.11を忘れない。
自分と家族の命を守れるように
日々の積み重ねをしようと思います。
追記
あの日どの着物を着ていたか覚えています。
母のお下がりの着物でした。
母の着物に包まれていることで、
守ってもらえている感覚がありました。
着物はそういう力もある衣服です。
穏やかな週末をお過ごしくださいね。
Crane


