あなたの町の鎌倉殿 (1) 大分市若宮八幡宮 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

今回は実は鎌倉だけではない!

もっと身近な 鎌倉殿 の縁ある場所をご紹介。

 

今年の大河ドラマを見て、わざわざ遠い

「いざ!鎌倉!!」 と旅しなくても、まずは身近なところにある今年の大河ドラマに繋がる歴史史跡.。上差しハッ.

 

などとは、きっとあなた方の身近にもあるんではと思っています。ニコニコ

 

前回の大河ブログでは、現在私が住む大分県 大分市 での縁の歴史人 大友宗麟 ・・・

その宗麟の御先祖である 大友能直 (よしなお) が、鎌倉殿の意向で九州に下向して、 鎮西奉行として豊前・豊後・筑後国を守護した とお伝えしたが、実際こうした下向した人々の多くは、活躍の場を都や幕府に近い場所において生活をしていて、何かあれば現地へ向かうとした仕事をしていた。 能直もまたそうした人の1人であり、「吾妻鏡」には彼が鎌倉や京での活動を表す記載もある。

 

それでも自分の管轄地として鎌倉殿より賜われた地には、やはり鎌倉殿や鎌倉縁のものが未だに残されている事。

そうした私達の身近な鎌倉殿を探してみるのもいいのではと、この記事を書く事にしました。

特に鎌倉とは遠く離れたこの九州には、意外にもけっこう鎌倉殿の姿を探す事ができる場所があるんだよ。(^^)v

 

 

まっ、本人が下向してなくても鎌倉殿の名の下で、そうした史跡などが残されている場所。

 

 

まずは現在も大分市のJR大分駅から徒歩圏内にあるこちら・・・キラキラ

 

 

「若宮八幡社」 のご紹介です。

 

ここはこの周辺一帯にあったと言われる 大友氏館 のすぐ側に位置していて、今でも多くの人々が足を運ぶ場所の1つでもあるのです。ほっこり

 

 

説明にもあるように、こちらの 御神霊 は鎌倉の鶴岡八幡宮よりこちらに迎えたとある。 しかしこちらの御祭神の方々・・・まったくわからんわぁ~~。(笑)

 

大友能直は、「富士の巻き狩り」の頃 

源 頼朝 の側近くに仕えていて、曽我兄弟の仇討ち騒動においても、頼朝の命を守った武士の1人と言われている。 この活躍で彼は頼朝の信頼を得て、その後の歴史に名を残していくのだが、そこんところは前に書いた大河ブログを読んで欲しいと思う。

 

 

彼の娘のひとりが、今年の大河の顔である。

北条義時 の次男である 朝時 の元に嫁いでいた事。

 

意外にもの凄く北条氏に近い存在であった事には、改めて驚かされてしまう。

そして 10月2日 放送の回では、母方の縁で

中原親能 の養子となっていた事。 その親能の姿を放送回で見る事もできました。照れ

 

そっ・・・・、この男性がその大友宗麟の御先祖様を養子にした方。

 

なんで養子になっていたかも、前回の大河ブログをどうぞ・・・・

 

 

ちなみにこの場面での 牧の方 (りく) の娘の姿なんだが、親能は今すぐお逃げなさいと きく の身も案じて北条の手から遠くへ逃げろと言われた時のものだが、安心して下さい・・・・・ニヤリ

きくさんはこの後無事に再婚を果たしていて、後に母親の牧の方も側に来て、亡き父親 

北条時政 の亡くなって13年目の弔いをしている。 きくさんが亡くなるような事はなかったという事は、少し救われた気持ちにもなる。

初めに嫁いだ相手は 平賀朝雅 そしてその後に、 

藤原国通 と再婚する。

 

 

ちなみに先ほど書いた大友能直の娘が嫁いだという北条義時の次男北条朝時の姿が、これから番組にも登場してくるようで、大人になった姿が最近NHKの「鎌倉殿の13人」のHPにアップされている。

演じるのは 西本たける さん。 

この方は吉本の芸人さんなんだそうだ。 

私はイマイチ知らなかった・・・・・ウシシ(⌒▽⌒)アハハ!

 

 

朝時の母親はドラマで言えば 比奈 という事になるが、紹介文では父親や長男 泰時 にコンプレックスを抱いている・・・と書かれている。うーん

 

 

大友能直の養父である中原親能は、ドラマの中では鎌倉殿の13人に入っている人物だ。 

京と鎌倉との間にあって、互いの情報に精通している人物。

そしてあの 大江広元 の兄となる人物だ。

この時代…、兄弟で活躍する幕府用人が多かったようだね。ニコニコ

 

 

元々の大友氏館は、大分駅の後方にある山の中腹にあったと言われていて、その後その下の方へと館を移し。

大友宗麟らが活躍した頃には、写真に写る大分駅から徒歩15分ほどの場所が、拠点となって歴史に名を刻んでいった。

 

今でもこうして発掘調査を続けているようで、私が知った時には、広大な土地がそうだったんだとした話で、その後大規模な発掘調査が行われて、現在では宗麟の頃の庭園と大友氏を紹介した建物。 

南蛮BVNGO交流館 が隣接して土地の一角に建てられている。

 

いづれはこの場所に、宗麟らが暮らした頃の館を復元したいとの思いで、今も活動が続いているとした事だ。

もし復元されたら、時代劇セットのようなとんでもない当時の館が登場しそうだよ。 

現在国道10号線に面した側からの、立派な門も再現しようと考えているようだけど、一応計画は前に進んでいるようなんで、まだ形は見えていませんが数年後にはその姿を見る事ができるかもです。

 

 

そうすれば中世の歴史的建物の一部を、見る事ができるだろうと思っている。

 

 

こちらがその復元された庭園の一部で、奥のテントなどがある辺りには、その館があったんだろうと言われています。

そこへ復元を考えているのです。

勿論この庭園も発掘して出てきた岩も使い、記録に残る植物などもリアルに配置。 

当時を真似て造っていると聞いている。

今は高い建物があって、遠くの山々が見れないけれど、当時は多分その建物奥に隠れてしまっている、大友氏の城の1つである・・・・

高崎城 も見えたのではと思う。

 

 

その名の通り高崎山という猿が沢山暮らしている、観光地のある山の頂だ。ひらめき

 

 

こうした館から近い場所に、今…若宮八幡宮があるという事だ。

 

建久7年 (1195年) に建立されて、

大友氏の氏神としても信仰されてきました。 すぐ近くに大きな幹線道路があるんだけど、敷地内に入れば意外に静かな場所でもあります。

 

 

九州にも鎌倉殿の縁ある場所があると言ったけど、簡単に身近でご紹介しておくと、お隣の 熊本県 で言えば、北条義時が領主に名をあげていた場所として、肥後国阿蘇社内南郷 同じ場所には父親の時政の名も見れる。

そして 阿蘇岩坂 こちらも時政所領としていた。

 

義時の息子である泰時の名は、現在の熊本市内 健軍社預所職 地頭職 の領主として・・・・

また 横手村 とした地名もある。

 

そして熊本のお隣である 鹿児島県 

薩摩国五大院 新田宮 

島津庄内山内院 とした場所には、義時の父親・時政の名を見る事ができる。 

勿論これらは一部であり、全国を調べたら彼らの名が他の土地でも見る事があると思う。

 

 

余談ではあるが、鎌倉殿の登場人物 

三浦義村 は、一時私の故郷 土佐国守護職補任 とした記録も残されている。

 

この鎌倉殿の初期から広がって行った 

守護・地頭 の世界。

 

そうした事では多くの幕府用人らの名も、いろんなところで見れるかと思っています。

 

 

それはともかく、鎌倉幕府より下向した大友能直は、相模国大友郷の出として、鎌倉時代の御家人として、1196年に国守として下向。以来400年余り22代に渡って、豊後国を中心として九州北部を支配していた。  

そんな能直が建立した1つが、この若宮だったとした事だ。 

(調べたら大分市内でも若宮八幡とつく場所がいくつかあるが、私が話している場所は大分市中心部大分駅から徒歩圏内の八幡宮です。)

 

ここってね、毎年干支が変わるとこちらの社の画も、その年の新しいモノに変更されて一年間ずっとここに置かれるんですよ。指差し

 

 

私の家からはちょいっと外れた場所ではあるが、大友館跡にある施設·南蛮BVNGO交流館への用事や、庭園跡でのイベントや館跡でのイベント事に向かう時には、時々こちらの八幡宮にも寄り道する事があります。とは言っても、実際は初めに建立された場所はここではなくて、時代によって移っているようです。

今の位置に来たのは大正時代。

その前はもっと大分市の中心地でもある府内アクアパークといった現在の街中のオアシスとなっている公園一帯にあったそうだ。びっくり

 

つまりこの若宮八幡宮の建物は、そうたいして古い歴史ある建物というわけではないようだ。(苦笑)

でもね、大分市内には意外に古い歴史ある社や寺も多いんだよ。

今年3年ぶりとなるイベントが、こちらの史跡で開催されます。

 

今月29,30日の土日・・・

 

大分駅と大友氏館跡地を結んで、 

宗麟公まつり そして、

大友氏遺跡フェスタ が開催予定されています。上差し

 

9日には福岡県柳川市から、大友氏の有能な家臣でもあった立花家。 

その地にある立花史料館イメージキャラクターでもある立花宗茂とその妻である誾千代姫が駆けつける。

また翌日には、やはり福岡県の新宮町で活躍している武将隊。

立花甲冑隊そして九州武者同盟の方々が、援軍参戦として武者行列にも参加する模様。グッ

 

九州北部を支配していた大友氏。

 

それ故に大分を飛び出した各地にて、活躍をしている大友氏の元家臣団がいらしゃったんですよ。ウインク

 

 

大分での大友氏は戦国時代に消滅してしまいましたが、今でも鎌倉殿から繋がる大友氏に対する熱い思いを抱く人々が、現代でも活躍の場を広げながら先は大河ドラマ化を目指しているのです。(笑)

 

市のホームページには、こんな一文がありました。

 

 

「関東から多数の家来衆を連れて入ったので、相模国の血筋が濃いのかもしれません」 

 

 

当時はどうだかしりませんが、その後は多くの藩領の人々が往来して、 飛び地 としての政治の出先機関を設けたり、小藩分立 な政治が行われたりしたので、実際は相模国の血筋だけとはいかないと思いますよ。 

 

なんせ大分市が府内と呼ばれた頃は、

大分だけでなくて、この九州各地は戦勝の恩賞として、有能な武士達に与えられた土地支配の国だったのだから。

元々その土地に住んでいた人達にとっては、たまったものではないですよね。グラサン汗

 

そうして関係が、後々争いに発展して、

大分で言えば黒田官兵衛親子による…、宇都宮鎮房親子忙殺事件へと繋がったのです。

そう、この宇都宮氏も又…坂東の地から下向した鎌倉殿の豪族でした。

 

丁度中世から戦国期最後…、そして新たなる時代への転換期を迎えていたんですね。

 

調子こいた人達は、関東の御家人の流れがあるから、大分の人は標準語を話す人もいるんだ。

なんて人もいるけど、そもそも標準語とは明治政府が作ったもので、中世から明治までは少なくとも坂東の方言が盛んだったと思うけどね。(笑) 大友氏の頃で言えば・・・・上差し後には、様々な小藩が入るので、もっと言葉の方言の難しさがあったかと・・・・。

 

正式には、大友郷での方言を耳にしてみたいものだ。きっとその中には、今に残る言葉もあると思うけどね。

 

 

 

これは昨年の10月のイベントでのライトアップされた庭園。

 

夜は少し冷え込みましたが、今年も月末のイベント時にはやるそうです。

 

もしお時間がある方は、一度参戦してみるといいですよ。

さて、これからも大分での鎌倉殿縁の史跡を時々紹介していきたいと思います。 そして、九州各地での鎌倉殿も・・・・(^^)v