今年もあっという間に、1m越えの雪がこの地に降ったという。
雪がそこまで降らない地域に住んでいるとね、そうゆう話題だけでも心が躍る思いがするものです。 実際はそうした雪深き地域に住まう人には、とっても憂鬱な季節だと思うんだが、山間部育ちの私にはそんな事関係なくそこに移住したいと思ったほどだった。![]()
山形県米沢市・・・・・
写真は歴代藩主らが眠る廟所といった場所だが、
歴代廟所の正面には、あの有名な 上杉謙信公 が眠り、その手前にずらりと並ぶ歴代藩主らの中。
謙信公の左手に2代目 景勝 そして反対側右手にその子
定勝 ・・・・維新後東京で眠る藩主以外は、ここで皆さん一緒だという事でした。
その東京で眠る米沢藩最後の藩主 上杉茂憲 (もちのり) という人は、東京都白金の 興禅寺 といった場所に墓所があるそうだが、実はこの米沢にある上杉家廟所にも、彼の名前を見る事ができる。
ここでは 14代 と称されているけれど、何故だろうか・・・・父親は12代 斉憲 本来は・・・13代となるはずなのに?
まっ、いいや・・・・![]()
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今年5月15日で、本土復帰50周年となった沖縄県。
私達日本人でも、明治維新までの北の国での アイヌ民族 の事や、南の 沖縄 の事など、それまで一体どういった人々が住み。
どういった文化と歴史を紡いできたのかとした事を、未だに知らない事が多いと思うのだが、私自身もそうした知らない人間の1人でもある。
幕末維新を経て、いよいよ日本国は1つとなろうとして、日本と定められた地域の隅々までを、当時の政府は政策によって変えて行こうとしていました。 そうした事は何もアイヌや沖縄だけでなくて、日本国内のそれまで 藩 として成り立っていた国造りでも、 大政奉還 が起こり 廃藩置県 が起こりと、日本という国が大きく変革していった時代が始まりました。
その中で、今の山形県米沢市あった 米沢藩 では、最後の藩主となった 茂憲 が、米沢藩県知となった後・・・廃藩置県でその任を解かれて、彼は自費でイギリス留学を果たし、帰国後に政府や宮内省の仕事に就いた後に任されたのが、
明治14年 (1881年) 沖縄県礼兼判事 とした任務でした。
弘化3年 (1846年) 世継ぎとして生まれた彼は、 1860年 に元服をして徳川家第14代将軍 家茂 と初対面。
その時家茂から一文字をうけ賜わり、名を「茂憲」と名乗るようになりました。 しかし家督を譲られたものの時代は大きく変わり、慶応4年 (1868年) 4万石減封。 翌年より米沢藩での知事として身を置く事になったのだが、71年には廃藩置県で免官。
その後 1881年5月18日~83年4月22日 までの間、短い2年間の任ではありましたが、彼は沖縄への永住も覚悟して妻子を伴い、船で沖縄入りをする事となったのです。
それまでの士族や地方役人らによる、各地での政治や仕事ぶりではおごり高ぶり、私利私欲を肥やすといった問題点もあって、そうした姿を見ていた茂憲としては、それが許されない行為だと感じていた。
沖縄入りを果たした彼は、早速沖縄本土だけでなくて、多くの離島なども含めての視察巡回を始めました。![]()
その中で見えてきたのは、その地に住む人々がどれほど貧しくて、苦しい生活を強いられているかといった事。
勉強をしたくてもできない境遇の中にいる子供や若者達。
これからの沖縄発展と、民達の暮らしの改革には、まず子供達の学びの場を整え優れた産業を発展させる事。
その人材育成の為にと、彼は県費にてまず5人の人々を、東京への留学と称して送り出します。 明治15年 (1882年) の事でした。
また彼は各学校への私費での奨学金や文房具などの寄付もしています。 彼が沖縄への永住も覚悟してここへやって来た気持ちは、こうした現地の現状を改善したいとした強い思いもあったのだと思う。
当時の人にとっても、それまでの沖縄の現状は少なからずとも伝わっていたと思うし、各地を巡回して見えてきた事は、それまで思っていたよりも厳しい現状だと、腰掛程度では改革できないとわかったんだと思う。
上杉茂憲がこの時巡回した記録は、 上杉県令巡回日記 とされて、当時の沖縄全県を知る上での重要な史料となった。
私が行った2度の訪問では、どちらも雪が降る事が多くて、こちらの写真でもわかりづらいのですが、越後の国から会津の地を経て米沢に入って来た上杉家は、米沢での貧しい国の現状に心を痛めて、上杉家での家臣やその家族までもを、どうやって養って行こうかと思う中で、全ての民・百姓・商人他多くの人々の努力の元、何度となく藩が消滅しそうになる危機を乗り越えてきました。![]()
その中で人々が食べるモノに困った時の為にと、家の垣根などにこぞって植えたものがこの ウコギ といった植物でした。
現在ではアイスクリームにまで、その材料として使われていますが、今でもこうして道を歩けば時々ウコギを見る事ができました。
勿論今はこうしたモノを食べる為にと、植えているわけではないでしょうが・・・・。
あと米沢城での周辺を巡る堀では、海が無い米沢だけに貴重なたんぱく源をと考案されてたのが、鯉 を飼う事だったと言います。
今でも米沢ではこうして、鯉料理を食べる文化が残されているようでしたが、私はここで初めて鯉というものを食べたんですよね。![]()
鯉とか鮒とか食べる文化に生活をしていなかったんで、初めの一口目にはちょっと勇気がいりましたが、ちゃんと泥を吐かせているから・・・・
臭みもなくて味は淡泊? 私は甘露煮だったんだが、骨が太くて大きかったんで、それが食べづらく思ったけど、それ以外ではまぁまぁ普通に食させてもらいました。
米沢での上杉は、それまで豊かな食文化の中にいた為に、それまでよりも劣る石高の元、大変な努力を虐げられたと聞いています。
よって野にある植物からあらゆるものまでを、食文化の中に取り入れていき、人々の生活の中でも産業となるものが作られて行きました。
そうした苦労した国に生まれ育っていた人間だっただけに、沖縄の現状を見て知って、上杉の血としてはほおっておけないと思ったのでしょう。 なんせ上杉家と言えば 義 と言われるほど、正義を貫く思いが強いですからね。(笑)![]()
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そりゃやっぱり2009年放送の大河ドラマ 天地人 でもわかる通り、あの徳川家康にでさえ、義経の 腰越状 ならぬ文面をしたためて、当時の上杉家の義の人 直江兼続 が送り付けて、その信念をまげないよとした意地をみせたくらいだからね。(笑)
思いは真っすぐなんだよ・・・・・![]()
それ故に、2年の短い任期を終えて東京へ帰らなければならなくなった時には、沖縄の人々の暮らしを心配して、まだまだこれからだとした夢半ばな思いで、茂憲は沖縄の人々の為にと、当時のお金で高額となる 1,500円 とした私財を奨学資金として県に寄付して、当時妊娠していた夫人は沖縄の地で子供を産み。
その時生まれた娘には、琉球の 「琉」 とした字をつけたという。
それほどまでに、沖縄の人々に寄せる気持ちは、深いものだったと思われる。![]()
彼は沖縄県令として2代目だったようだが、当時の沖縄の人々の中にも、彼の思いは深く刻まれた事だと思います。
1919年4月18日 75歳にて死去。
廟所の墓守の男性も、東京で亡くなった人以外はと言っていたが、その東京で亡くなった茂憲の墓は興禅寺だが、彼を慕う沖縄の人々によって、実は故郷米沢のこの上杉霊廟所内に、沖縄の有志により建てられた記念碑がある。 どうやら 遺髪 が収められているようだが、丁度上杉謙信の2代目を継いだ景勝の霊廟の左に置かれている。 それはブログ内2枚目の写真を見て欲しい。![]()
私が彼を知ったのは、もう何年も前なんだけどね。
図書館へ行ってその時開いた本の中にそれはあって、当時の沖縄の民たちに心を寄せて、私財をなげうってまで頑張った人がいたんだと、それが戦国武将・上杉謙信の上杉の末柄なんだと、驚いたわけ・・・・
その最後の当主も訪れたであろう 上杉伯爵邸 という明治期に建てられた館にて、随分と贅沢な食も頂きました。
こうゆう建物内で頂く事も、当時を思いなんかドキドキしてしまうんだが、・・・・・![]()
本当に真冬に行くとね、こんな感じであっという間に雪に閉じ込められしまうんだよ。(笑) 貴重な体験をさせてもらいました。
そしてこの伯爵邸には、天皇家の方々もお泊りになったんだとか・・・・・。 そう言えば私、雪の上杉家廟所参りでは、当時の藩主の奥様から頂いたお菓子を持ち帰りました。(笑)
藩主様は、講演会で先に山形市内にと言っていた。
それもドキドキした巡り逢いでした。(笑)
しかし伯爵邸の門をくぐった途端に、真剣に庭から建物までの間で、遭難するんではと思ってしまったよ。(笑)
実はこの方4人もの奥さんを持った方のようでしたが、それまでの人との間にできた子供達は、皆夭折した子供ばかりで、4人目にしてやっと普通に家族を持つことが叶い。
3男6女と子を生したといいます。 そしてその中のお1人であった男子で、 朝憲 という方は当時の子爵の娘と結婚。
今でいう養子ということでしょうか、なんと現在私が住む大分市・・・・
豊後府内藩主 となり、現在も天守台と石垣と櫓の残る街中の城の主となったと言います。 まっ、それも旧藩主ですけどね。(笑)
その時の名前は改められて、 大給近憲 といったそうだ。
大好きな米沢の藩主の息子さんが、大分にいたなんて不思議な縁を感じました。![]()









