美濃斎藤家と土佐長宗我部3 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

5月24日、いきなり 明智光秀 と敵対する相手となってしまった

道三の嫡男で、その 斎藤道三 を討ち取った 高政 が、新たなる名を得て 斎藤義龍 となり、京の町にて再会するとした展開がありました。

 

その義龍は、ナレーションの一言だけで、この世を去ってしまった。(笑)

 

視聴者達の間では、その事がかなり問題となったようで、Twitterでもだいぶ騒いでいましたね。(笑) そりゃそうだよな・・・・・ にひひ

京の町にて突然光秀と再会。

「次に会ったならばお主の首を斬る」 とまで言っていた義龍が、それが脳裏に焼き付いていた光秀の前に、堂々と現れたのだから。

光秀の強張った顔の表情も、かなりのものでした。 それがナレーションの語りだけで、義龍の人生に幕が落とされた。笑い泣き

 

今回の大河ドラマは、謀反人として今でも知れ渡っている光秀の人生にスポットをあてたものなのですが、今年は本来ならばオリンピックの年でした。 それ故いつもの放送回数よりは、多分少なかったんですね。 なので人生の前半が謎に包まれているとした彼は、それに適した人物でもあったんだろうと思います。

そして、完全オリジナル脚本です。 もちろん私達が知る後半からの

人生は、オリジナル脚本の中でも、フィクションとノンフィクションを併せ持つ事にもなります。 そこで、義龍の死の様子も、今放送しているドラマの撮影時には、元々の回数にも合わせていたはずなので、それほど重要視して撮影をする予定もなかったのかもしれません。

 

この物語は、 光秀と信長 の物語で完結する為に、光秀のよくわかっていない前半を、丁重に描く事は難しいこと。

そこを詳しく描けば、どこかでボロも出てしまい。 ありえない物語になりかねないし、義龍との美濃での別れの後は、光秀は各地を放浪しているんで、義龍の亡くなるシーンに焦点を当てる必要もなかったのでしょう。

 

道三が鷲山城にて隠居を決めた時、高政は叔父の 長井道利 と共謀して謀反を企み。 病気を装って弟二人を稲葉山城に呼び寄せて

殺害しました。 こうしたところは、少し信長の弟殺害の現場と似ていますけどね。 ここもかなり間引きされた描かれ方を、ドラマではされてましたね。

 

それに怒った道三が挙兵して、高政との間で 長良川の戦い を起こしました。 地元衆の多くが高政についていた為に、この戦いは初めから勝敗が決まっていたようなものだとした人もいます。

道三を敗死に追い込み、晴れて斎藤家の当主となり美濃を支配する立場となった高政は、その後名を改めて 義龍 と名乗る事となります。

 

義龍は美濃の安定を考えた政策で、長年内乱で荒れていた所領問題を解決。 父親とは違って独裁的な事を改めて、重臣達の意見を取り入れて、合議制の政治を行いそれなりに国内を安定させていたとも言います。 そして道三を義父と慕った 織田信長 の義父への仇討ともとれる幾度となくの侵攻も、なんとかくい止めるなど、それなりに

美濃の領主としての手腕を発揮していました。

 

 

(京の町での光秀と義龍)

義龍の働きは、室町幕府の 足利義輝 も認めていて、幕政に参加するようにと勧められていたくらいだった。

 

ドラマでは、その義輝の元へタイミング悪く光秀と義龍が、現れるとした物語として描かれました。 義龍は今の自分の重臣達も、実は自分の事を恐れて、顔色をうかがっているようなもので、信頼が得られるようなものではないと、光秀に再び側に仕えぬかとした言葉をかける。

しかし光秀は、亡き道三より 大きな国を作れ と言われた事を、今でも忘れられずに、他の侵攻などがないような強くて大きな国の為に、自分がどうするべきかと悩んでいると口にする。

そしてお前には仕える事ができないと・・・・・、それを聞いて義龍は亡き父親である道三の考えを、初めて知った気になり、自分にはできない事が光秀ならばと、無理強いする事無く再び別れを口にするのだった。

 

 

2年後病でこの世を去るとした言葉を、ナレーションひとつで終えた

この時のシーン。 歴史を知らない人達にとっては、知るきっかけにもなったかもしれないが、あえて言うならば・・・・・上差し

 

義龍は・・・・いや、義龍とその正室・・・さらには子供三人が、その後

相次いで病死してしまう悲劇に見舞われてしまうのです。

時は 1561年 の事でした。

 

世間では、父親を殺した事で義龍に悪霊が取り憑き殺されたとした噂も流れました。 こうした出来事に、美濃の人々は不安な夜を過ごす事となりました。 その後義龍の子であった 龍興 が、斎藤家の跡を継ぐのですが、まだわずか 13歳 の男子だった為に、義龍と比べてもその才は父親には敵わず。 そこへ勢力を拡大させた信長が襲い掛かり、彼はあっさりと信長の手に落ちてしまう。

 

そして美濃のマムシと呼ばれた道三から、無理やり奪って領主となった義龍・・・その子龍興の斎藤家は、繁栄わずか3代にてその歴史を終えてしまったのでした。 龍興は一旦は信長より逃れて、越前の

朝倉義景 を頼りますが、天正10年 1573年 その朝倉氏が信長に滅ぼされると、共に討死したのでした。 

 

(長宗我部元親初陣の地には、彼の銅像と制覇した四国地図が)

さて、そんな頃の長宗我部はというと、四国統一を目指して戦に明け暮れていました。 長宗我部元親 の正室やその母親が、美濃の斎藤氏や清和源氏に繋がる家の出だという事は、前回お話ししたとおりです。 元親は後に溺愛した嫡子 信親 の正室にも、斎藤氏の血が流れる女子を迎えています。

 

豊後国の戸次川での戦いでは、長宗我部のその後の衰退となるような多大な犠牲を払いました。 その時に次期当主となるはずだった子

信親をも失ってしまいます。 信親の死後長宗我部家では、次の跡継ぎをどうするかとした問題が浮上して、幾たびと話し合いが持たれました。 そして、多くの家臣や縁者が反対する中で、元親は信親の一番下の弟 盛親 を、次の当主にと強引に決めてしまったのです。

しかもその盛親の妻にと、なんと信親の子であった子女を、娶らせている。 これには家中にて猛反対が起こります。

 

そりゃそうですよね、姪っ子がおじさんと結婚するだけじゃなくて、近親者としての結婚に、そこに生まれる血の呪いを恐れたのです。

だが元親は、一説によればこうすることで、溺愛した信親の勇猛果敢で優しくて優秀な血を、もう一度受け継がせることを望んだと・・・・・

恐ろしい妄想に取り憑かれてしまっていたとしか言えない元親。叫び汗

 

盛親の妻・・・・信親の子が産んだのは女の子でした。

 

そしてその後、筑後柳川藩の 立花家 に仕えた人間の元へ、嫁ぎ子を儲けましたが、この子は早くに亡くなったとの事で、ここで美濃斎藤家の血も途絶えてしまいました。

 

溺愛した息子の死後は、まるで人が変わってしまったような元親の生き方。 随分前にブログに書いたことがあるが、昔の人というものは

そこまで  とか 家柄 とか、どれだけ大切なものだったのかといった事。 武士であればその出世や天下統一に対しても、価値のあるものだったと思える事柄には、現代を生きる人間としては、ちょっと驚いてしまうような話しですよね。(笑)

 

元亀2年 1571年 元親の一番末の弟 親益 は、元親の父親国親 が島某の妻に手を出して生まれた子で、後に島を名乗る事となり、 島親益 と名乗っておりました。 この方は、現在も続く長宗我部家の 血流 ともいえる唯一今日まで生きながらえてきた子孫達の初代であるとの事。 現代では、この親益の子孫達も長宗我部の名を許された時から、長宗我部を名乗りつづけている。

 

私がこのブログなどを書く時にも、参考とさせて頂いている書籍・・・・

「長宗我部」 などの長宗我部家の歴史などを綴ったものや、ブログなどを書いていらしゃった 長宗我部友親 さんの先祖でもある事を、ここにご紹介させて頂きます。 ニコニコ

 

その親益は、大変病弱な方だったとかで、療養と称して有馬の地へ

湯治に向かう船旅の途中にて、波をやり過ごす為にと国境の阿波国

海部の港にて、船を停泊をさせていた時に、地元の 海部氏 の勢力方に討たれて亡くなってしまいます。 土佐統一 を成し遂げていた元親は、この時初めて他国への軍勢を動かす機会を得た事になりました。

 

それも末の弟の為の 弔い合戦 ともいえるものでした。

 

元親はこの頃信長より、戦いの許可を・・・・そして同時に阿波と伊予

南部の攻略の許しを得ます。 信長としては、元親の手腕を見届けようとしたのかもしれませんが、これが元親の 四国統一 へと繋がっていく事にもなりました。 上差し

 

元親は姻戚関係でもあった明智光秀を通じて、信長と交渉をしている。 まず四国統一への足掛かりとなる 阿波への用兵 を告げて、自身の子である嫡子 弥三郎 に対して、信長に 烏帽子親 となってもらい。 信長の 「信」 の一文字を頂きたいと、願い出ている・・・・

 

この時の書状は、光秀の重臣であった利三を介してとの話しもあるが、信長は元親からの願いを了承した。

現在でも、高知県南国市の 歴史民俗博物館 には、信長が「信」の字を、嫡子弥三郎に与えるとした書状が残されている。

こうして弥三郎は、信の一文字を貰い受けて、「信親」と名乗る事となった。

 

信長は、元親の事を 「鳥無島の蝙蝠」 と見下していたというが、その元親からの戦への用兵を許可しながらも、この頃信長を頼っていたのは、もちろん元親だけではなくて、これから元親が戦おうとしていた土佐以外の四国勢の主達も、信長に対して 援兵 を求めており、その後信長は、先に示した元親との 朱印状 を反故するような態度をとる事となる。 まっ、元親自身もそんな信長に対して、初めから信長に恩義などないとしたような思いで、彼からの言葉に対して反故しているのだから、結局それが元で最終的には信長による 

四国討伐 へとなっていくので、戦国の世である事は、誰の責任でもないようにも思えてくる。

戦国だから仕方ないじゃァ~~ん ってね。ウシシ汗

 

信長が 石山本願寺 との約十年に及ぶ戦いに終止符を打ち、ついに畿内の支配を確実にすると、 天下統一 への夢はいよいよ西国攻めへと、その目を向けていく事となる。

 

信長は天下統一の為に、瀬戸内海沿岸の国々による協力体制も強化したい中で、阿波や讃岐国を外様である元親が、支配する事を認めたくないとした現実となってきたのだった。 目あせる

 

こうして 5月7日付 で三男の 信孝 を四国攻めの総大将にと、そして 「讃岐を信孝 阿波を三好康長 伊予と土佐両国は、自分が淡路経由で出陣した時に表明する」 とした書を送り。

5月17日 明智光秀は、中国攻めでの備中高松での秀吉援軍に要請を命じられて、本来ならば秀吉の元へ向かうはずであった。

信長の三男・信孝は、大阪の岸和田の港より、四国討伐軍を引き連れて、船で四国へ渡る手はずであった。 その出陣前日となる・・・・・・

6月2日 ・・・・明智光秀によって、全ての運命は狂う事となる。

 

信孝は船の上で、父である信長の死を知らされた時には、一体何が起こったのかと把握できずに、只呆然としていたと言います。

信孝の船は、この翌日である 3日 に出航予定だったとか・・・・・

つまりその前日に、父親の不慮の死を知らされてしまったのです。

 

その時備中高松城にいた後の 豊臣秀吉 は、大変な苦戦を強いられていた中で、突然主の死を・・・・またどうやらそれをやったのは、あの明智光秀であると知らされて、急いで 中国大返し を行い。 6月13日 ・・・・・山崎の地にて、いよいよ光秀の軍と戦いの時を迎えるのでした。 光秀はこの後に小来栖の地にて、落ち武者狩りにあってしまい。 地元の民に殺されたとも、生き延びたとも・・・・・

いろんな説が未だに存在しています。 首塚だけでも、いろんな所に残されているし、墓というものもあちこちにあるようで・・・・・

光秀を思う人々の思いも、伝わってくるようであります。 ショボーン

 

私が訪ねた備中高松城址跡の公園での写真ですが、 1985年 の大雨による水害を表しています。 下の段が勿論いつもの風景なのですが、ひとたび大雨などで水に浸かれば、この通り戦国時代を思わせる様な風景にも変わったとした事が、資料館にて紹介されていました。

 

 

 

 

ここに集っていたのは、名だたる戦国有名武将達。グッ

大河ドラマ 「軍師 官兵衛」 でも、その模様が描かれたので、御存じの方もいらしゃると思いますが、岡山県倉敷市からJRに揺られて、30分内で着いてしまうほどの距離でしたが、遠く信長がいた地からだと、とんでもない距離だと想像はつきますよね。叫び汗

 

実は去年12月に旅をした大阪茨木市にも、光秀を迎え撃つ為に終結した秀吉軍の地があるとの情報を得まして、本来ならば光秀との関係性にて、立ち寄りたい気持ちだったのですが、この時は御存じの通り隠れキリシタン の取材でしたので、時間の関係上行く事ができませんでした。

 

またもし今のコロナウイルスが、落ち着いてきたならば・・・・・星

 

大阪に足を運ぶ予定があるので、その時にでも行ければと思っております。 歴史の人物達が、一体どんな場所に立ち・・・・・

どのような風景を見ていたのかと、そんな追体験も歴史好きにはたまらない時間なのです。(笑)

 

元親の母親は美濃斎藤氏の血を受け継ぐ 斎藤利良 の娘。

そしてその元親の正室は、清和源氏そして、土岐氏の流れをくむ・・・・

石谷光政 (いしがいみつまさ) の娘であり、元親の子信親の正室にも、美濃斎藤氏の流れをくむ光秀の重臣であった斎藤利三の兄、

男子がいなかった石谷光政の家に、娘婿として入った後の・・・・

石谷頼辰 の娘を迎えている。

(ここで言う美濃斎藤氏とは、斎藤道三の流れとは違う古くからの一族で、光秀と同じ美濃の守護だった土岐氏の流れをくむ者たち)

 

元親が何故こんなにも、美濃の人間にこだわったのかはわからないが、多分自身の母親の出身地でもあり、出目であった事と・・・・・

戦国乱世において、これより天下をとってくれそうな人間達が、美濃

尾張の周辺にいたとした事。 そして何よりも正統な血を受け継ぐ者達で、あったとした事からではないかと思います。 元親の正室は、大変美しい女性だったといいますから、土佐の田舎者と馬鹿にされないようにと、これから中央へと出ていくにしても、対等に名だたる人々と肩を並べたかったのではないでしょうか。 にひひ

 

それがたまたま戦国時代において、現代に至るまで・・・・・・

主君となった相手を、突如として襲い討ち取る謀反を起こした人間。

明智光秀とも繋がる家と姻戚関係だったという事。

また利三の母が、光秀の叔母となる人物であったなどとした説もある。

 

 

 

光安とは父親が亡くなった事で、その家督を継ぐにふさわしい年までとして、明智の城の主となっていた叔父 明智光安 の事。

この光安さんは、斎藤道三が討たれた後に、義龍らの軍に攻め入られて、光秀とその一族・・・・・自身の息子を逃した後に、城と共に自害して果てたその人だった。 ドラマでは、道三に嫁いだ帰蝶の母でもある

正室 小見の方 が、この光安の妹であるとされている。

 

後に光秀の重臣として利三と共に活躍したのが、この光安の子で光秀らと共に明智の城から落ち延びた息子 秀満 だった。

 

ここまでくると、もう本当に凄く濃ゆ~~い光秀との関係性も伺えて、

本当にあの 本能寺の変 の時に、前もって元親は知らされていなかったのかと、疑ってしまいますよね。キョロキョロ

 

元親は実際信長らの四国討伐の噂を知っていて、その為の案をねっていたわけで、その事は信長との間を取り持つことが多かった。

光秀や利三らとのやりとりや、後に元親に仕えたとした石谷頼辰らに、

間を取り持ってもらおうとしていたとした事は、有名なお話しとなっていて、光秀と古い付き合いにもなるましてや、娘を嫁がせた相手であった

細川家 にまで、 信長討伐 の援軍を頼むほどの話しだったのに、海を隔てた場所とはいえ、何もやり取りがなかったのかと、疑ってもしまいますよね。

 

実際元親は、光秀の本能寺での件にて、随分と命拾いをしたとも言われていて、もしあの本能寺がなければ、長宗我部家は信長の討伐軍に、窮地に追い込まれていただろうと言われている。

信長の死を知らされた時、元親は血気に走り嫡子信親が、今軍を進めて阿波の海部城に手勢を集めて入り、一気に勝瑞城を攻め落とそうとするも、元親は息子信親が、この好機を逃す手はないとした動きに、

不可解な動きをみせていると、「長宗我部」の作者長宗我部友親さんは述べている。

 

「理のあるところだ。 だが、今は季節の変わり目で体調が悪く、不正時期にある。 心身が良くない。 しばらく療養を加えて秋になったら攻めて、阿波をことごとく平らげよう」

 

と息子に進言したという事だ。 これに対して信親は、「父上は最近病気で、心根が弱くなっている。」 と述べたというのだ。

 

何故元親は、天が味方してくれている内に、城攻めをしなかったのだろうかはてなマーク もしや・・・・信長が亡くなったせいで、打倒光秀の者達の動きを心配していたのだろうか。 自分達は、光秀らとも仲が良かったし・・・

その元親と光秀の重臣であった利三との・・・・・・、本能寺直前のものとされる書状が、岡山の 林原美術館 と 県立博物館の人々によって見つかったとした事が、もう随分前に話題となりました。

 

「元親紀」 には、その 「斎藤内蔵助 (利三) は四国のことを気遣ってか、明智謀叛の戦いを差し急いだ」 としたものもあると言うが、やはり元親の事を四国の事も、考えての事でもあったのかとした事は、記述をそのまま信ずることはできないがとしながらも、長宗我部

友親さんは、結果的には元親は光秀に助けられたと言っている。

 

土佐の歴史の書でも有名な 「土佐物語」 でも、本能寺の変の頃の四国討伐隊の慌てぶりを、事細やかに示している。

 

(まだ桶狭間前の織田信長)

 

光秀が落ち武者狩りにて、命を落とした頃・・・・・・

その重臣であった利三は、捉えられて晒し者となったもののその後、

脱出をしていて、他の明智勢での脱出者達も、後に四国の元親を頼り元親の元で仕えたとした話しが残されています。

 

信親の正室の父となる石谷頼辰もまた・・・・

元親の元で仕えていて、信親とは四国攻めで共に戦っています。

 

今後大河ドラマでも描かれるかどうかはわかりませんが、

もしやまた義龍の時のように、ナレーションの一行で終わる可能性もあるんで、どうなるのか先が楽しみでもありますが、・・・・・・

頼辰が仕えていた室町幕府の 足利義輝 が、松永久秀や三好三人衆なる者達によって、暗殺されてしまった後に、彼は娘の嫁ぎ先であった土佐を頼り、その後信長との取次役にも抜擢されて、元親と信長との間を取り持つ関係を築いていきました。 ウシシ

 

5月24日の放送では、京の町にて足利義輝を見舞う為に、当時世話になっていた朝倉氏より光秀が京へ使わされて、その時朝倉義景より鷹を数羽預かりそれを義輝への献上品とする場面がありましたが、

あれを見て私なんかは、その前の土岐頼芸が斎藤道三に毒を爪につけて、道三暗殺計画をになった鷹を、斎藤家への献上品として持たせた家臣の死の場面とダブって、またよからぬ事を仕込んでいるのではと、心配もしてしまいましたが・・・・・(笑) 

あの頃は本当に、鷹とかを贈る風習が、武家にはあったのか?うーん

 

実は元親も光秀を介して、信長への返書と共に鷹を 16羽 と

砂糖を3千斤届けています。 

 

やはり身分の高い人への献上品には、当たり前の鷹だったのでしょうかね。 それを鷹狩りとかに使ったのかはてなマーク

あまりにも多く頂いた方も、その後の世話でも大変だったのではと思ってしまう。(笑) それと同時に、当時は貴重とされていただろうな砂糖を、こんなにも沢山献上するなんて、元親はどこで手に入れていたんだろうか。

 

豪快な彼は、土佐沖で泳ぐクジラを、豊臣の世になると秀吉への献上品として、届けさせたとした記録も残されている。(笑)

権力者であり、時の人の気を引きお気に入りとなる為には、努力も惜しまないし自分の考えを通してもらう為ならば、多少大変な思いをしたってかまわないという事でしょうかね。(苦笑) サーフィン

 

話しは元へ戻ってと・・・・・・、利三や頼辰などの他にも、謀反を起こした明智家の窮地から、命からがら逃げだした人々は、他にもいたようです。

 

例えば光秀の城 坂本城 で、自害したと言われている光秀の娘婿である 明智秀満 彼はあの光秀の叔父であり、明智の城と共に自害して果てた光安の子だった人。 その妻子は、やはり逃れて落ち延びて、その子 太郎五郎 という者が、土佐の地に居ついてそれがあの幕末の志士といわれる 坂本龍馬 の坂本家の先祖となったとしたもの。ニヒヒあせる

 

これは随分昔から言われてきた事だけど、龍馬の家の家紋である

違枡桔梗紋 が明智家のものと似ているとした事や、光秀の城であった 坂本 を名乗っている事などがあげられていて、他にも土佐の地にてそうした伝説ともいえる事に繋がる話しが、それとなく伝えられてきた事にもあったというが、この点は今では違いますよとはっきりと否定されてきている。

 

判官びいきや時代を変えようとした歴史人としての姿に、二人の伝説を重ねたのでしょう。 近世になって作られた歴史の1つですね。(笑)

でも、確かに太郎五郎なる者の話しは、龍馬の家に伝わっています。

その人物が最初に居ついた場所には、碑も建てられている。

 

只・・・・、妻子が落ち延びたとしたはっきりとした事は、よくわかりません。 土佐という場所は、歴史上では日本にあるいくつかの島流しの

土地の1つともされていて、遠く奈良時代から・・・・・・

多分皆さんも知っている聞いたことがあるだろう人物達も、数多く流されてきています。 戦国時代で言えば、あの石田三成の娘とその乳母の話しも、高知市には残されています。

 

史跡があるんですよ・・・・・・ニコ

 

またこれも以前紹介した事がある 源頼朝 の末の弟や、伊達政宗の10男で、 伊達兵部 とした。 史実としても有名なお話しの主人公も、妻子共々流されて、彼一人が土佐の地の山内家預かりとなり、今も立派な墓が高知市内にはあります。

 

他にも本当に大河ドラマな歴史人達が、沢山土佐を訪れている。

 

前回書いたと思う元親が結婚前に、密かに上洛していたとした時に

会っていた人物で、 山科言継 (ときつぐ) という人がいるんですが、彼は公家であり足利義輝とも仲の良かった人物なんですが、自身は宮中に仕える身分の低い女が生んだ子だったにも関わらず。 正室に男子がいなかった為に、次期跡継ぎとして認められた人物でした。

それ故、自由気ままにいろんな世界を見聞きしていて、人脈の広さも素晴らしく、その人脈作りにもたけていました。

 

多分戦国武将さんとは、いろいろとお知り合いがいらしゃったのではなかろうか。 (実際いらしゃいましたよ・・・・沢山) 

 

その山科言継とは、それだけでなくて日本で医業にも精通していたとして、内職もやっていた。 そしてまたあの信長との交渉役もしているとした経歴からして、私的には今回の大河ドラマでは、架空の人物として登場している 望月東庵 (左より2番目) の 堺正章 さんの姿が、ふと頭の中に表れました。 脚本家は、もしかして・・・・・参考にした?(笑)

 

それはわかりませんが、この山科言継の残した書物の中で、戦国期においての文化や芸術に政治情勢など、多岐に渡って貴重な史料が残された 「言継卿記」 (ときつぐきょうき) というものがあり、文化的歴史的価値が高い代物だそうで、その中においてこの言継さんは、

 

「斎藤内蔵助 (利三) 今度謀叛随一也」

「本能寺の変に斎藤利三が、深く関わっていた」 と記しているんだそうです。 大変興味がある記実ですね。

 

あぁ~~~、今回は美濃斎藤氏と長宗我部の回の一区切りとしたんで、ついつい詰め込み過ぎて、ボリューム満載となってしまいました。

どうも読んで下さりご苦労様でした。(笑) m(__)m ありがとねぇ~~、

最後となりますが、私ちょっと気になった事がありましてね。チュー音譜

 

こちらの斎藤義龍 (高政) が、まだ父親に喧嘩を売っていなかった頃。 高政として登場していた頃に、同時に多局にてドラマに主演されてましたよね。 そこでは彼自身が道三のように、頭を剃った形で登場して、しかも医者なのに坊主とした役柄でした。 にひひ

 

「病室では念仏を唱えないで下さい」 といった題名のドラマで、そこでは救急医療にも携わる 松本先生 を演じていました。

この3月で放送は終わったんですが、多分最終話の回かその手前での回かなはてなマークはてなマーク ある事で知り合い長い間世話にもなってきた。

心を通わせた知人男性が、病で亡くなるといったシーンにて・・・・・・

 

泉谷しげる さん演じる男性が、頭の下に敷いていた・・・・枕カバーの模様を見て、思わずグフっと笑ってしまいました。(笑)

 

お気づきだろうか・・・・・・・ 爆笑あせる

 

 

 

 

      これってどう見ても・・・・・・!?

 

斎藤道三の後ろにたなびく旗の家紋に似てませんか? ウシシあせる

 

ねぇ~~、これって意図的なサプライズだったんですかね。(笑)

私にはどうにも、この家紋と同類としか思えなくて、・・・・これはギャグですかとシリアスな場面なのに、笑ってしまって目がいって離れられなくなりました。(笑)

 

斎藤高政こと松本先生は、ある出来事から悟りを開かれて、院内でも説法したり悩み事にのったりと、はたまた亡くなる人がいれば、こうしてお経を唱えて手を合わせてくれる。 時々は真面目なお医者様のこのブルーな衣装なんですが、その殆どはお坊さんの格好をして、院内をうろつくちょっとエッチな先生。(笑) 

 

ドラマ的にはアットホームなコメディにも見えました。(笑)

 

泉谷さんの枕のカバーも、広げてみなければ模様が同じかわかりませんが、この場面に見える位置だけでは、道三が使った家紋の1つ。

「二頭波」 なこの文様に、心ワクワクしてしまいました。

 

 

さて、これからの大河ドラマは、コロナウイルスの影響にて撮影ができなくて、次回の 7日 放送 第21話 にて一時休止となります。

その次の回からは、特別番組としての過去の大河ドラマ作品から、

名場面やキャストのインタビューなどを取り入れた・・・・・

 

「「麒麟がくる」までお待ちください

         戦国大河ドラマ名場面スペシャル」

 

が放送となります。 その14日放送分は、 独眼竜正宗

21日は 国取り物語 28日最終回では 利家とまつ が放送されます。 いつも通りに土曜日の再放送もあります。

BSプレミアムでも、PM6時~45分まで放送。 

7月以降の番組は、決まり次第にHPなどにてお知らせするそうです。

 

BS4Kでは、日曜の朝9時~第1回からの「麒麟がくる」を、放送するそうです。 再放送枠は別番組の編成で、決まり次第これもHPなどにて、

お知らせしてくれるそうです。

 

各局があらゆるジャンルの番組にて、コロナウイルスの影響が出ていて、新作を放送できなくなっています。 未だに春の新番組や新ドラマが、放送未定のまま近日放送とだけ出ている始末。

映画館の上映作品も、公開が延期されたり未定となってしまったり、今はまだ新作よりも、古い作品や過去に人気のあった作品を、毎日公開しているようで、これから少しずつ新しい作品も出てくるのではと思っているんだが、未だ感染者やクラスターが出ているので、これもわからないとしか言えない状況ですね。ゲホゲホ汗

 

それでも、ほぼほぼ光秀の前半の人生の場面を描いた放送が、見れただけでも儲けものでした。 これから人生は後半へと入って行くのですから、それまでしばし待ちましょうかね。ウインク

 

次回の歴史ものブログは、・・・・・・さて? 

 

どんな話題にしましょうか。