ここにもあった・・・、 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

今年の2月に大阪に行った時にも、こうした旅の目的を書き出したメモを持参した。 ここには、旅先での移動にどう何を使うか・・・・・グッド!

 

行きたい場所の情報や、小ネタ・・・・・。 他にも移動時間や目的地周辺の情報など、食や文化や歴史などを、思いつくままに書き出して、

メモの空きスペースには、その時その場での事柄をメモったり、いろいろと書き込んだもの・・・・・。

 

これとは別にちゃんとしたメモ帳も持参した。

 

これがいつもの私の旅・・・・・・ウインク

 

 

旅立つ前にブログにも予告として書いたのが、来年は大河ドラマで

明智光秀 が取り上げられる事から、今度は みっちゃん 

「光秀」でいこうとした事柄。(笑)

 

だけど実際は、なかなか光秀縁まで進むことができなくて、はっきり言ってそれは次回の旅の目的となってしまった。(苦笑) 笑い泣き

但し・・・・、今回私が旅した路線上には、その光秀縁の場所があった事は間違いない。 まぁ~~、私自身が立ち寄れなかったけどね。(笑)

 

旅の2日目・・・・・、ホテルを出て最初に向かった場所は、直接光秀とは関係ないだろうが、それでも縁ある方々の場所でもありました。

 

 

阪急電鉄京都線にて、梅田から十三 (じゅうそう) を経由・・・・・

そう時間もかからない場所に、こちらの 崇禅寺 の駅があります。

 

見て字のごとく・・・・、この地にあるお寺さんの名前が、そのまま駅名になっている場所です。 駅から歩いても、今回訪ねた場所の中では、一番近い目的地かもしれない。(笑) 但しここへ行かれる方は、ほぼ

普通列車 各駅しか行かないんで、気をつけて・・・・・上差し

 

私はこの後京都へ向かったが、高槻まで各駅に乗り、そこから特急に乗り換えて京都を目指しました。 少しでも時間を早める為に・・・・

茨木でも特急には乗れたと思いますけどね。ニコニコ

 

大阪方面から来て、改札の駅員さんに道を尋ねたら、やはり駅名になっているだけに、それはねって・・・・すぐさま丁寧に教えてくれた。

 

改札を出ると、すぐ左手に歩いてそしてすぐ側の信号機を、写真のような感じで、この建物の間の道へと足を進める。

信号向かい角には 駐在所 ・・・・・・。 進行方向正面に見えている高層マンションまで歩いて、そのマンションを過ぎればもう目的地は近い。 大体片道駅から 5分 ほどとの事。走る人

 

お天気も良くて、12月なのにとても過ごしやすくて、歩いていると吹く風がちょっと冷たくて、気持ちのいい朝でした。

 

 

 

 

 

右手に市営住宅みたいな建物が見えると、その前には歴史の散歩道の碑が建っている。 驚いたのは、もうここから歩いても近い場所に、

新大阪駅 があるとした事。  そうゆう地理なんだねと、ニンマリしながらお寺の門を恐る恐る覗きながら入って行った。(笑)

 

ちなみに新大阪駅からでも、片道8分~10分ぐらいなんだって・・・・・

 

さすがに裏門だっていうんだけど、これだけの門構えだからね。 ちょっとビビったりもしたわけよ。(笑) どうもこちら側は、駐車場となっていて、お墓参りの方々がよく使う場所だったみたい。

 

ここがどんな場所かって言うと、お寺の名前と共に写る瓦で、なんとなくわかったような方もいたかもしれないが、ここはそう・・・・・・

前回も大徳寺の高桐院の細川氏を訪ねたが、実はここもそうした関連のある場所だった。ニコニコ

 

 

 

 

ここを創建したのは、あの 行基 とも 聖徳太子 とも伝わるらしいが、昔はもっと広大な寺域だったそうだ。 

ここには室町幕府第6代将軍 足利義教 の墓があるが、その子である第7代将軍 足利義勝 が、父親の菩提寺として大伽藍を建てた。

 

ところがその後その建物が、戦火で焼けてしまい。 後に摂津守護だった 細川持賢 が伽藍を寄贈細川家の菩提寺の1つとなるのだが、その時の伽藍も昭和の大阪での空襲にて失い。 1989年 平成元年になって、旧本堂と同規模の再建が、今度はコンクリートにて行われた。 それがこちらの建物・・・・・・

 

私も帰りに手を合わせてきたけれど、ガラスの扉の奥には立派な仏像が置かれていて、このお寺さんの歴史がわかるようだった。

 

この規模の本堂が、昭和以前にもあったとしたら、昔から相当大事にされてきた寺だったんだな。

 

 

 

寺の墓所には、この本堂を挟んで両サイドに道があって、それはそれぞれの墓所へのアクセスとなっているようでした。

 

特に本堂右手の通路の紅葉が綺麗でした。 \(^o^)/

 

丁度庭師の方なのか・・・・・。 朝から敷地内にて、掃き仕事をしていた男性がいたんで、その方に目的の墓所の場所を聞くと、有名な墓なのかすぐさまこっちだよと教えてくれた。

 

それは本堂左手の塀の間を抜けて、塀に沿って歩いて行った奥・・・・・

こちらには歴史的なお墓がいくつかあるが、その中でも有名なお話しが、 「崇禅寺の馬場 遠城兄弟のだまし討ち」 というお話し。アセアセ

 

時は 1715年 正徳5年5月14日・・・・・。

大和 ・・・今の奈良県の郡山藩士であった 遠城宗左衛門重治

が、 生田伝八郎 と行った剣術試合にて勝利。 しかしそれを悔しく思った伝八郎が、重治の事を逆恨みして、彼を闇討ちにして殺害してしまいました。ガーン

 

その事を知った兄である 遠城治左衛門重広 と ・・・・・・

安藤喜八郎光乗 の兄弟は、重治の仇を討つために伝八郎を探し、伝八郎が早く見つかる事を 生國神社 で祈願していると、なんとその本人が現れた。 どちらも驚いた事だろうが、この時伝八郎は冷静さを装って、ここは神域であるからと、その事を理由に後日果し合いの日時を、兄弟に伝えるのであった。

 

それが、こちらの 崇禅寺の馬場 だった。

 

同年 11月4日 に寺にやって来た兄弟は、伝八郎が呼んでいた加勢の手の者により、返り討ちにあって殺されてしまったという。

掃き掃除をしていたおじさんの話しでは、どうやら伝八郎の加勢達は、

兄弟の頭上・・・・・、木の上に登り潜んで、彼らがやって来て事が始まると、目つぶしの為か馬場の土を手に、木の上から兄弟めがけて振り落としたそうだ。 真顔汗

 

これはまっこともって、あり得ない卑怯な仕打ちだよな!むかっ

 

昔は仇討といえば、その見届け人がいた事で、この時も元江戸町方与力であった 勝見宗春 が、この時の様子の一部始終を見ていて、亡くなった兄弟を哀れと思い、寺の住職とも知り合いであった事で、崇禅寺にて埋葬と法要が行われる事になった。 その宗春の墓も、ここにあるそうだが、今は当時の馬場の様子を垣間見ることはできないが、古い写真には、うっそうと茂った木々の間に、馬を走らせるくらいの細長い道が続いていたのを見る事ができる。

 

その兄弟の墓は、現在では立派な屋根を付けた建物内にあり、丁度私が進もうとする道沿いの正面に存在していました。

 

そこを通り過ぎて振り返ると、こんな感じで墓が祭られていた。 建物脇には、遠城兄弟の墓と小さな碑が建っていた。 内部は沢山のお供え物があり、地域の方々から今も哀れと思い丁寧に、祭られているようだった。

 

周りには古い墓もあるが、比較的新しい時代のものも多い気がした。

そして周辺には、住宅も迫っている・・・・そんな場所でした。

 

そして遠城の兄弟の墓を右手に歩いて行くと、・・・・・・・ランニング

 

私が会いたかった方の墓が、そこに待っていた。

 

 

 

 

この位置には、3つの墓が置かれていたけれど、1つはこちらの古い時代の住職さんで、真ん中が室町幕府第6代将軍・足利義教の墓。

 

そして向かって一番左端にあったのが・・・・・・ピンク薔薇

 

 

 

 

そう・・・・・、京都大徳寺の高桐院のくだりでも紹介したが、実はここにもあった 細川ガラシャ こと 玉子 の墓。 この石柱は、ガラシャの没後350年の昭和25年4月に、細川ガラシャの為の会が建てたものだった。

 

この 「秀林院」 の「秀」って、明智光秀と関係はないのだろうか? 父親の一字を貰ったとか・・・・・。もみじ

 

そんな風に感じてしまいました。 昔からこうして3つ並んでいたかはわからないけど、お坊さんのお墓はともかくとして、中央に位置している足利義教の墓というのは、正確には 首塚 と言われているもので、

何故首塚なのかと言うと、この方の人生文字で起こすとややこしいのだが、まぁ~~頑張って紹介します。にひひ汗

 

 

まずは父親の名前が 足利義満 という方で、男子が数人いました。 その中の何番目かが、首塚の主だったのです。 その何番目かは、よくわかっていないと聞いてますが、人によっては5番目とか様々です。

 

そして首塚の主 義教 の兄の子である 義量 が、5代将軍だったのですが、義量将軍とは名ばかりで、実は未だ政治的影響力を持っていたのが、その父親である 義持 だったのです。 父親の足利義満は第3代・・・・兄の義持は第4代将軍だった。

 

義教は義満の側室の子であり、元服前に出家していたので、将軍候補からは当初外されていた人物でした。 5代将軍義量が亡くなると、引き続いてその父である義持が政治を引き継いでいく。

1428年 1月・・・・、病に倒れた義持に対して、次期将軍候補の伺いをたてるものの・・・・彼はその事を拒否。 困った群臣たちは、評議を開いてその結果。 石清水八幡宮 でくじ引きを行うとする。

 

この時の 神籤 (くじ) 引きの話は、後世まで語り継がれて今でも、ちょっと引けばすぐ出てくるほどの歴史である。神社ハッ

 

結局義持の兄弟4人の中から、次期将軍を指名する事となるのだが、

その4人の中にいたのが、義教でもあったのだ。

 

一度将軍候補を外れたのに、よほどこの時は困っていたのだろうか。

 

そして義教が、義持死後に開いたくじ引きの結果にて、第6代となったのだが、初めは坊主あがりで髪の毛もなくて、元服前の出家であった事で、まずは元服をとバタバタとしたらしい。 (尚ここでは、元服前やその前後の名前を出さずに、統一して後の義教としています。)

 

いろんな問題をなんとか乗り越えて、将軍となったものの・・・・・・

兄義持は父親の義満の政治を嫌い。 独自の政治を行ったのですが、逆に義教はそんな父親の政治を復活させようとしました。

それは、官僚や特権のある家柄の者たちが、権力を振るえないようにする。 将軍に歯向かう者は、許さないとした政治でした。

その事で義教の周辺の者達の反感をかい。

 

命を狙われてしまう事にもなりました。

 

その中には、自分が次期将軍だと疑わなかった兄弟の姿もありました。 そして、この後・・・・・有力守護だった 赤松満祐 (みつすけ) が、自身が将軍に対して反感を持っていて、処刑されるのではとの噂が流れた事で、やられる前にやってしまおうと、宴席に呼んでいた義教が、能を鑑賞中に庭で馬が暴れて、「何事か!」 と声をあげた。 それを合図にして、隠れていた武者たちが襲い掛かり、彼の首を斬って落とした。 

 

その首を持って逃亡している時に、こちら崇禅寺までやって来て、寺にその首を置いて逃げたと伝わります。 あるいはここに葬った・・・・・

 

どちらにしても義教の首は、以来崇禅寺の境内にあるという訳だ。

 

そしてその隣には、右に住職左に細川ガラシャ・・・・・。

 

この写真でも見えているけど、ガラシャの墓の横の壁・・・・・の上。上差し

その飾りとなっているところにあるものが、十字架に見えたのは偶然の事なのか。 

 

それはぐるりと、この3つの墓を取り巻いている。 もし十字架とか意識したなら、お寺さんも粋な計らいだ。 但し多分これは、偶然だろうけどね。にひひ

 

花は持って行かなかったんだけど、線香とマッチは自前持ち込み・・・・

 

ここにもしっかりと、細川家の家紋を見る事ができる。

 

ところで何故こちらにガラシャの墓がって・・・・、そりゃまぁ~ねぇ~~、

細川家の菩提寺の1つでもあるんだし、あってもおかしくはないんだけど、実はここへ彼女の遺骨を運んだと言われているのが、誰もが知る

オルガンチノ 神父だった・・・・・。 

 

 

私が今年2月に訪ねた大阪市内・・・・、大阪城にも近い場所にあるこちら 細川屋敷 のあった場所から、ガラシャがここで亡くなり、屋敷に火が放たれた後、燃えた屋敷跡から彼女の遺骨と思われしものを掘り出して、オルガンチノ神父が細川家菩提寺となっていた崇禅寺まで運び入れて、この寺に埋葬をしたとした事でした。赤薔薇

 

 

 

ガラシャの墓とされているものは、今回訪ねた京都大徳寺高桐院と

大阪府の崇禅寺・・・・・そして、ガラシャの夫 細川忠興 が最後に移り住む事となった肥後熊本の 泰勝寺 と3ヵ所にあります。 こちらの泰勝寺は、忠興が熊本へ参ってから建立したもので、今は細川家の菩提寺として残されていて、寺の方は跡となっています。ニコニコ

 

なかなかどっしりとした立派な墓石なのですが、大阪の崇禅寺では普通サイズ・・・・・。 京都の高桐院のものは、時間の関係で入る事ができなくて、この目で見てはいないのですが、女性としてここまで墓と言われて作られた方は、ガラシャぐらいではと思っています。乙女のトキメキ

 

イチ大名の妻であり、キリシタンでもあったにも関わらず。

 

戦国という女性にも、厳しい時代であったと思うのに、夫忠興とはあまりめちゃめちゃ良い仲だったとは聞く事がないのにも関わらず。

子供も数人もうけて、死後夫により墓を建立されて・・・・・・

忠興がしつこかったのか愛されていたのか・・・・、そこんところもはっきりさせたいところです。(笑)

 

キリシタンに入信した妻を、忌み嫌っていたはずなのに、彼女の死後は神父に頼んで葬式も行わせている。花束花束花束花束

 

まっ、忠興や細川家の記録を見れば、やはり怖い面もけっこう残されていたりもする。 自分の子供を廃嫡したり切腹に追い込んだり・・・・

時代が時代だけに、致し方ない背景があったとはいえ、妻がイエスを崇拝したかった気持ちも理解できるてもの・・・・・。しょぼん

 

辞世の句にて、人の一生と花の一生を例えて、散り際を歌ったものは、女性らしい美しい歌だと思うのだが、ふと墓石の下に目をやると、崇禅寺の墓所の片隅に、多分これって スミレはてなマーク てな植物の葉が生えていました。

 

今回はなんだか墓オンパレードなブログとなってしまいましたが、光秀縁とまではいかないが、 光秀縁者 な歴旅となりました。(笑)

 

そしてここには くじ引き将軍 と呼ばれた足利義教の首塚と、

仇討で返り討ちにあってしまった悲しい兄弟の墓がありました。ほっこり

 

こうして歴旅をしていると、細川家が歴史で関わってきた時間とかわかって、 「あそこんちは、只モノではないな」 と思わされるのでした。(笑) だって、私の故郷高知や四国にも、関わってくるんだからね。

 

そして、ここ九州にも・・・・・

 

そんな歴史と伝統文化を守る為なら、忠興も時に鬼になったんだろうと思います。

 

これで細川ガラシャの墓と言われる場所を、3ヵ所巡り終えました・・・・

 

まさか忠興よ、他にもどこかに隠れガラシャの墓とか、作っているんではないだろな? 行く先々で、いつでも妻に会えるようにって・・(笑)

 

 

光秀の人生の縁ある場所を辿ろうとして、まずはその娘の縁の場所を訪ねてしまった。(笑) でも、実は・・・・・今回使った交通機関である

阪急電鉄京都線沿線には、光秀縁の歴史がいろいろとあるんだよ。

だから次は暖かくなってからだ。また大河なドラマ旅をするのは・・・・ベル

来年放送になる大河ドラマが、どれだけ人々の興味を引くかで、ドラマの舞台となる地域が賑わう事になる。

 

戦国時代は本当に久しぶりだし、私が戦国の舞台を旅するのも、久しぶりかもしれないな。(笑)  

 

 

ねっ、崇禅寺の裏門っていうこちらの門の大きさもびっくりだが、で~んとつけられた家紋の大きさにも驚くでしょ。(笑) ウシシ音譜

 

さてと、では次回はいよいよ京都でのラスト歴旅です。チョキ