今年の大河ドラマには、久しぶりに私と同郷の龍馬も登場する。
その前半には、昔中学の英語の教科書でも習った・・・・やはり土佐の人物で ジョン万次郎 も登場した。 (#^.^#)
話しの筋は、幕末の薩摩藩であり、主人公は西郷隆盛だけれども、彼と関わりがあったというだけでも、多くの土佐人の名前を耳に目にできるのは、なんだか土佐の高知の私としては、やはり嬉しい事なんだな。
但しその分、放送を見ていて幕末の志士の事を、時代を龍馬たちの事を思い。 先週も不意打ち涙を流してしまったけどね。
あの時代は、今年でまだ150年前という近い時代で、それでいて凄いパワーを持って人々が生きた時代であり、その人たちのおかげで、今の日本の姿があると思うと、泣かずにはいられないのだよ。 (T_T)
2010年の大河ドラマで、龍馬が取り上げられた時に、改めて彼の足跡を辿って、高知から九州へと各地を旅し、九州に戻ってからも・・・・
車で長崎や鹿児島後に熊本・・・そして、大分から熊本への道などを歴旅した事を思い出す。 そんな今年の大河ドラマにて、最近2回の放送に渡って登場した人物がいる。 勿論土佐出身者なのだけれど・・・・
吉村寅太郎 大河を見ていた人なら、記憶にあると思うけどね。
さて、・・・・・この幕末に知られた人物だが、現代ではあまり記憶にされていない龍馬の影に隠れているような人って、一体どうゆう人物なのか・・・・・。 今回はその人を御紹介したいと思います。
彼が生まれたのは、天保8年・・・・・土佐の山間部にある芳生野村
現在の高知県高岡郡津野町芳生野 (よしうの) だ。
家柄が 庄屋 だったという事で、彼は父の跡をわずか12歳で継いでいる。 当時の土佐では、3年おきの庄屋の移動が義務付けられていて、3年経てば別の赴任地である村へと移る。 その費用は、全て本人たち任せだといった事柄があった。 それらは、藩において何かしらの企て争いなどをさせない為の策でもあり、そうやって村での庄屋と村人との信頼関係や金を断つ事で、いらぬ反感を未然に防ぐ為のものでもあった。
だが、後にこうした事柄が積もり積もって、庄屋同盟なる繋がりになるのだ。 それ故、龍馬たちが脱藩する時にも、こうした同盟が彼らを後押ししてくれて、山間の山々を難なく脱藩する事を可能とした。
虐げられた弱い身分の者たちは、龍馬たちのような国を変えようとする原動力の力になって、土佐国を越えてからも、そうした底辺での繋がりが、他国の者とのやりとりともなって、脱藩者達を助けたのだ。
芳生野にある 吉村寅太郎生家跡地 に近い場所には、風を受けて立つような彼の立派な銅像もある。 だが、土佐において現代では、その人柄を詳しく知る人は、多分龍馬についで少ないと思う。
私達高知県民は、前向き過ぎるのか(笑)
坂本龍馬 のことさえよくよく知らない人が多い。 今は大河ドラマの影響もあり、2010年以降・・・・小学校などでの授業や個人的に学ぶ人なども増えて、それまでよりは知られる人物となったとは思うが、いつもよく耳にするのは、地元高知の人間が一番訪れる事が少ない場所。 それが 高知県立坂本龍馬記念館 なのだ。
実は私も、そんな1人だった・・・・・
だからこそ、何故そんなに県外の人に人気があるのかと、大河ドラマをきっかけにして、幕末土佐と龍馬たちを学ぶ事となったんです。
いつも言われるけど、意外なありえない高知県民の事実です。(笑)
勿論大河以前から、彼らの事を詳しく調べていた人とかもいますよ。
でも、県民の大半は無知だったという事かな・・・・・。(´ε`;)
ところで、そんな坂本龍馬たち土佐脱藩者の先駆けとなったのが、今回紹介している吉村寅太郎という人物なんです。
現代では 吉村虎太郎 と表示されるけれど、私は一般的な寅太郎で表示しますね。
復元された吉村寅太郎生家
芳生野村の吉村太平と妻・雪の長男として生まれた彼の家は、北川村
須崎村 下分 (現・須崎市) の庄屋、そして檮原村大庄屋を務めて、
津野山郷九ヵ村を総括したほどの家だった。 かなりの有力者のところのお坊ちゃんですね。 芳生野にて同地で郡役人をやっていた人で、
間崎哲馬 という人物に学問を学び、高知の城下にて剣術を・・・・
後に土佐勤王党 を指揮する 武市半平太 に学びました。
武市半平太
そうして彼も、土佐勤王党に入る事となるのですが、文久2年2月・・・・
そんな武市に頼まれて、長州の 久坂玄瑞 に彼の手紙を届けに行きます。 その後九州に渡り、筑前国の 平野国臣 と出会い、平野から薩摩の 島津久光 の率兵が上京する事と浪士たちによる挙兵計画がある事を耳にする事になります。
寅太郎は、一度土佐へ戻り・・・・武市に脱藩してそれらに参加する事を説くが、武市はそれらを許さず。 寅太郎は少数の同志を説いて共に土佐を脱藩するのでした。 長州へ渡り久坂を頼り、一路海路で
大阪を目指します。 そして長州藩の藩邸にて越前から脱藩をしてきていた 本間精一郎 と合流するのですが、この本間精一郎という人物の事も以前書きました・・・・・。 私が2009年に旅した新潟県での旅先にて、その生家跡を訪れていて、寅太郎と知り合った後には、寅太郎と同郷であり、同じ土佐勤王党の仲間でもあった・・・・・
後々人斬りで有名になる 岡田以蔵 らによって殺害されてしまうという人物なのです。 精一郎も若くして、志高く京へと上った幕末の志士でした。
脱藩後も、倒幕運動を続けた寅太郎は、1863年文久3年・・・
同志たちと共に、天誅組 と名をつけた組織を、大和国にて結成。
9月24日 鷲家口 (奈良県東吉野村) にて、紀州・彦根藩兵と戦闘になり戦うも、その時の傷口が悪化して、一行を離脱籠にて運ばれていたが、 27日 になって津藩兵に発見されてしまい・・・・
そのまま射殺されてしまいました。
27歳 まだ血気盛んな青年でした。
先週の大河ドラマでは、「西郷どん」にて寺田屋事件が描かれていましたが、あの事件後に捉えられた寅太郎は、一度薩摩の手から
土佐へと送還されて、囚われの身となります。 それを助けたのが、
四万十川で有名な現・四万十市の生まれであった間崎哲馬たちでした。 しかしその後彼はもう一度脱藩をして、天誅組へと向かうのです。
別名 間崎滄浪 (そうろう) 彼の墓は、今も四万十市の長法寺にあります。 これは昭和41年に、高知市に所在する墓から分骨して建てたものだそうですが、彼は高知城下に出て、高知駅前の高知警察署近くに家を構えていた。 今もそこには邸跡の碑があるが、土佐でも
有名な勤王の志士でした。 四万十市の中村城跡に建つ郷土資料館では、彼に関する資料を見ることもできます。 後、武市や他の勤王党メンバーと共に捉えられて、切腹して果ててしまいます。
四万十の墓には、辞世の句が刻まれていて、・・・・・
守る人の あるかなきかは白露の
置き別れにし 撫子の花
とあります。 また吉村寅太郎の辞世の句は・・・・・
吉野山 風に乱るる 紅葉葉は
我が打つ太刀の 血煙と見よ
戦にて志半ばに亡くなった寅太郎の句らしい句ですが、哲馬の場合は、まだ幼子を残していく為の儚さと悲しみがあり、対照的な句でもあります。 先月7日に書いたブログ
にて、戦う公家中山忠光を
紹介しました。 リブログしときました・・・・。 彼も吉村寅太郎と戦った
人物で、天誅組からその後の人生を書きました。 日本の歴史に関わる人生ですので、よろしければまた目を通してみて下さい。 (*^^)v
ここは、寅太郎縁でもある高知県檮原町にある 掛橋和泉邸 内にある 姫隠しの間 ・・・・・。 邸内の細い階段を上がると、天井裏にある窓のない間で、ここに集まっては幕末の志士や庄屋たちが、こっそりと会合などを催したり、誰かを匿ったりした場所。
ここへの階段が、足を置くところが思うほど厚くなくて、細くて不安定で・・・・・、ちょっと好奇心で登るにも、階段が壊れるんじゃとそっちの方が心配だったんだけどね。(苦笑)
フラシュ使わなくて撮影したら、なんとかこれぐらいは取れたけど、実際は殆ど真っ暗で、奥へ行けば行くほどボーッと姿がわかるくらいかなと思う。 これは多分夜景モードで撮ったんじゃなかったかな・・・・・・。
こんな暗くて狭い場所で、脱藩の相談とかしたんですかね。 訪ねたのはもう数年前の事・・・・・・・冬なんで、洋服でぶくぶくしてますが(笑)
檮原町は、高知県でも脱藩の町として有名な山間の町です。
高知県の西部の山手に位置し、山を越えれば愛媛県という地理にあり、車でここから1時間も下れば龍馬や多くの脱藩者が世話にもなったという 大洲市 という場所にでます。 私も現在ではよく、九州から車で帰る時に、このルートを利用して・・・・・・
龍馬たち脱藩者とは逆に、土佐へと向かうのです。
実際は、龍馬たちが歩いたとされる脱藩の道は、檮原町の国道より外れた山手を行くんですが、現在でも町の観光の方が、案内をしてくれています。 どうやら大洲市の方でも、わらじを履いて・・・・・・
龍馬脱藩の道を歩くイベントが予定されているようですが、一度私も歩いてみたいと思っているところ・・・・(#^.^#)
脱藩の町檮原町には、掛橋和泉邸へ向かう道を左手に行けば、・・・・
津野山郷出身の志士6人の墓がある。 昭和10年 1935年に檮原町が建立したもので、町の指定文化財となっている。
ここにも、遠い大和の地にある吉村寅太郎の墓がある。 中身はないけれど、故郷の地にもこうして彼を祀る場所がある。
ちなみに、上記で紹介した寅太郎の銅像は、明治百年にあたる昭和
43年 1968年の12月22日に除幕されました。
掛橋和泉は、志士たちの旅費を借金してまで調達。
上士と下士 (間に中士という身分もある) という厳しい身分差別があり、苦しい生活を虐げられていた民たちの気持ちも知り、国を変えようと奔走する脱藩者達に対して、その志をくみ思いやり応援していたからこそできた事でした。 土佐の人間は、そこまで熱い思いがあったのです。 和泉は28歳で亡くなりました。 この掛橋和泉邸は、吉村寅太郎が務めた檮原村庄屋の屋敷跡に移築された建物で、内部奥には
脱出口まである。 土佐は山間分に沢山の関所があったが、この町がその中でも、一番理解を示してくれた場所だったと思う。
小高い丘に立つ手を挙げた吉村寅太郎と、天誅組の同志たち・・・・・・
その右手には、坂本龍馬と共に脱藩をした 沢村惣之丞 そして、先導する天誅組にもいた 那須慎吾 (左手の銅像にもいる) の父・・・・・・ 那須俊平 が・・・・・そして、中央に手を合わせて無事を祈る掛橋和泉がいる。 維新の門 というこれらの銅像は、なかなか迫力があり圧巻です。 一度見て欲しい作品群です。 ![]()
私の知り合いの方で、東吉野村の方で天誅組について調べて活動している方がいます。 高知よりも精力的な活動で、寅太郎たちの事をいろいろと調べては、イベントなどもして下さっている。
本当にありがたいことです。 高知では、龍馬ほど知名度も学ぶ人も多くない寅太郎ですが、もう2年前から地元でおもてなし隊のキャラとして活躍している吉村虎太郎がいます。
土佐おもてなし海援隊 の中で、蘇った人物として高知駅前にてステージショーなどをして、観光客や地元の人達を楽しませています。 この隊には、龍馬や中岡慎太郎・ジョン万次郎・岩崎弥太郎そして、武市半平太 もいます。 彼らの前のおもてなし隊だった勤王党から受け継いだこの活動。 こちらの虎太郎さんも、度々津野町を訪れては、観光に一役かっているようです。
現世では、イケメンスマイルで集まった人々を魅了してますが、本当の彼が生きた時代は、新しい時代へと生まれ変わる前の産みの苦しみな時代。 これからの大河ドラマでも、そうした世界が描かれて行く事となると思いますが、今年はこれからも今までなかなか映像に登場させてもらえなかった 幕末の志士たち が、土佐からも登場すると思います。 薩摩のお話しなんだけど、それがちょっとわくわく・・・・・
土佐でもなかなか楽しみにしてるみたい![]()
まずはこの方・・・・・。 既に撮影に入っていて、やはり慣れない土佐弁に四苦八苦してるようですが・・・・・・。
西郷どんには、いろんな意味でご迷惑とお世話になった龍馬さんですからね。 今回はどんな演出になるのか・・・・・・。
ちなみに、「西郷どん」の原作者の方は・・・・今年高知県の観光大使になっているそうです。
そしてこちらが、NHKさんのツイッターからお借りした今回の龍馬さんです。 ![]()
小栗君の喋る土佐弁イメージがないのだが、どうゆう
龍馬像を見せてくれるのか楽しみだ。
吉村寅太郎や坂本龍馬縁の地である檮原町は、津野町のお隣の町で、高知市からはしんじょう君というゆるキャラで有名な彼の街・・・・
須崎市まで高速を使い30分、そこから197号線を辿って、1時間ほどで到着します。 津野町は檮原への途中にある町です。
そこには今年、新しく素敵な図書館が誕生しました。
こちらのデザインをした方は、2020年の東京オリンピックでの建物をデザインした方と同じ設計者。 雲の上のホテルという温泉完備の宿泊所もあります。 いつか訪ねてみて欲しい歴史の町です。















