私が車の免許取れたてで、母親と弟を連れて東部から、一番遠出したのが、高知県の西の端に位置する街でした。 その時有名な岬を目指していて、二股別れた道を、間違って右へ行ってしまい・・・・、その後は1時間ほどかけて、とんでもなくデンジャーな道を走ることとなった。(笑)
椿のトンネルが続く、ほぼ一車線な道で・・・当時1600CCのインテグラに乗っていた私にとっては、脇のバス停を見かける度に、「頼むから前から来ないでよ」と・・・・・(;´∀`) 命懸けの走行でした。
だって、車寄せやUターンできる場所もなくて、ほぼ右側は海への崖・・・・。木々はあれど、光の射す中に、波音も聞こえてくる。(笑)
左手を行っていれば、半分の時間で楽々走行できていたのにと、無事に目的地に着いた時には、目指す岬まで一度も車と正面から向き合うことがなくて良かったと、本当にホッとしたものでした。
( ゚∀゚)ハーハッハッハッハ!!
その時、間違って入っていった道沿いに、今回紹介する方の生家跡がありました。 彼は、14歳で仲間と共に 土佐市宇佐 の海から船出して、嵐にあってしまい・・・・黒潮に乗って、太平洋の 鳥島 という場所へ流れ着きました。
今回の幕末の登場人物は、土佐の西部に位置する集落であった。
現在の 土佐清水 という地域に生まれた知る人は知る。 知らない人は知らない・・・・ ジョン・万次郎 さんのお話しです。
大浜トンネルを抜けて、すぐ左手下方に中ノ浜がある。 彼はその地域の生まれなのです。 だから本名は、 中浜万次郎 と言います。 中の浜バス停の傍らに、恵比寿神社 があって、参道石段がり、その上に「贈従五位濱萬次郎翁記念碑」 の碑文があるが、これはなんと、公爵徳川家達 (いえさと) の書なのだ。 この碑の側には、貧しかった少年時代に、米とぎをさせられていた・・・奉公先の今津家から寄贈された石臼と台柄石が並んでいる。 正確にはこの記念碑から少し北へ進んだ場所が、彼の生まれた生誕地とされている。
彼が流された鳥島という島は、まったくの無人島で・・・・・
万次郎だけでなくて、とんでもなく大昔から、多くの船乗り達が流れ着いたという話しが残されている。 だから、彼とその仲間が流れ着いた時にも、先人の漂流者達の形跡が、どこかにあったんではと思うのだが、・・・・・土佐で言えば、彼の前にはもうひとり有名になった人がいた。
長平 ・・・・・この名前を知る方は、どれほどいるんだろうか?
かつて昭和50年代には、北大路欣也さん主演で、この人物の作品が映画化になりました。 私なんて劇場へ行く度に予告編を見ていたが、当時は坂本龍馬さえ興味のない時期で、無人島に流されたおじさんのお話しかぁ~てな感じで、スクリーンを見ていたのを覚えています。
これが実は土佐国の赤岡村 (高知県香南市赤岡町) の人だとは、随分後になって知りました。 現地には銅像もあります。
長平さんは、江戸時代 1785年の1月に、高知県の東部に今も残る町 田野 へ向けて、御蔵米を運搬した帰りに、土佐沖で嵐にあい・・・舵と帆柱を失って、黒潮に乗り遠く八丈島のまだ南方にある鳥島へと流れ着きました。 その島には、渡り鳥のアホウドリがいて、このアホウドリの肉や卵を口にすることで、なんとか飢えをしのいでいたのです。 卵の殻には、雨水を貯めて生き残った者達と共に、なんとか生きていたのですが、1年半ほど経つと・・・・とうとう彼一人となってしまい、そんな時・・・・同じように嵐で漂流してきた大阪からの船の11名、またその2年後には、薩摩からの船の生き残り6名と出会う事となりました。
彼らの大半が、漁師や船乗りであったことが幸いして、島にあるものや流れ着いたものを使って、やがて船を造り始めます。 生活の知恵をつけて、的確に支持する長平に、他の仲間達は敬意を評していたと言いますが、船が完成すると占いによって進むべき方角を決めて、やがて青ヶ島に辿り着き、そこで1ヶ月ほど滞在して、八丈島へと向かいます。 そこで尋問を受けた後に江戸へと送られて、そこでまた幕府や土佐藩より尋問を受けた長平は1798年 寛政10年1月19日に、土佐の地へほぼ13年ぶりに帰り着きますが、その時には自身の13回忌をやっていたというから驚きです。(苦笑)
鳥島を出る時には、次にまた誰か流れ着くかも知れないと、鍋や釣り道具・火打石などの生活道具の他に、無人島で生活するための術を書いたものを残してきたと言います。
帰国後は各地で体験談を話して金銭を稼ぎ。 家庭を持って、藩からは 「野村」 の姓まで賜り、野村長平 として亡くなったあとには、墓石に 「無人島」 というあだ名まで刻まれたと言います。
彼ら以外でも、よく鳥島の名前を聞くことがあるんですが、その同じ島に万次郎も流れ着いたのです。
万次郎の故郷土佐清水 足摺岬の山
万次郎が生まれたのは、文政10年 1827年の1月1日でした。
9歳で漁師の父をなくして、幼い頃から働きに出ていました。 14歳の時に、奉公先で問題を起こし、折良く近くに魚を卸にやって来ていた。
宇佐浦西浜の徳右衛門の船に乗せてもらって、天保12年 1841年
1月5日・・・・、現在の土佐市 宇佐の西浜 から、宇佐の漁師で船頭の筆之丞に従い、総員5名で 延縄漁 (はえなわりょう) に出かけることとなりました。 その翌々日足摺岬沖で、突然嵐となり・・・・
蛇行する黒潮に乗って無人島であった鳥島に漂着することとなったのです。 万次郎達の無人島暮らしも、とても大変だったようです。
苦労して数ヶ月経った頃に、なんと運良く島へ近づいてくる船を発見。実は何度か沖をゆく船を見つけていたんですが、なかなか島へ辿り着いてくれない・・・・、いや・・・・波が荒くて船を寄せられなかったのです。
万次郎達を助けることになった船は、アメリカからやって来た捕鯨船で、乗組員の水を求めてのものでした。 まさか人がいるとはと、互いに驚きながらも万次郎以下4名を船に乗せて、一度ハワイに立ち寄ると、万次郎以外の4名は、母国が近い場所がいいと言い、いつか船で帰れることを互いに誓い合い別れます。 14歳の少年だった万次郎は、物怖じもせずに粘り強く、順応性もあり・・・・いつしか船長である
ホイットフィールドに気に入られて養子となり、英語を学び測量や航海術・造船などの知識も学んで、学校では首席で卒業するまでになります。
そうして、捕鯨船に乗る仕事をする中で、いつしか彼は母国へ帰りたいと思うようになります。 その為には船がいる・・・・、当時日本はまだ鎖国の時代でした。 戻るためには、自らの船も必要と・・・・
ゴールドラッシュで沸くカリフォルニアへと渡り・・・・、そこで金 (きん) を掘る仕事について、コツコツと貯めた金で小さな船を買いました。
それを日本近海へと向かう船に乗せてもらって、母国へ帰ろうというのです。 途中彼は、ハワイにいる仲間の元へ立ち寄ります。
しかし、4人の内既に亡くなった者もいましたが、彼は残る仲間と共に戻ることになるのです。
直接日本に入れないが、上海の方へは行くからと、一度上海まで行きそこで船を下ろして、彼は今の沖縄・糸満市から鹿児島ー長崎ー江戸そして、土佐へと戻ることとなります。
彼の船の名前は 「アドベンチャー号」 ・・・・なんとも彼らしい名前です。
上海から琉球まで辿り着いた時に、彼は薩摩藩の尋問を受けます。 そしてその後、本土の鹿児島へと送られて、またここで尋問を受けることとなるのですが、当時の薩摩は 島津斉彬 の時代。
西洋についてとても興味深い考えを持っていた斉彬は、万次郎を長く引き止めて、その間に尋問と称して、アメリカの造船技術や航海術、鉄砲などの軍事的な事など、そうした事を万次郎からより詳しく聞くこととなります。 それらはやがて、薩摩の船などの造船にも、大きく役立つことになるのです。 斉彬はまた、彼を開成所という藩校の英語講師に招いています。 そうして次に長崎奉行所での尋問を受けることとなる。 ここでは、踏み絵を使って、キリスト教ではないことなどを、証明させられたりもしました。 その後江戸へと送られると、ここでの尋問でも・・・・同じような事を何度も問われている。
万次郎が土佐の地へ戻ったのは、日本上陸から2年後の事でした。
今度は土佐藩での尋問です。 大河ドラマ 「龍馬伝」 にも登場した。リリーフランキーさんが演じた 絵師でもあった 河田小龍 も立ち会った尋問では、アメリカでの暮らしや航海術・・・・他にもいろいろと問われて、それを小龍がまとめた 「漂巽紀畧」 (ひょうそんきりゃく) 全4冊は、土佐藩主 山内容堂 にも献上されて、土佐藩の武士の中には、それを目にした者もいたという。 それから2年後、・・・・坂本龍馬 も小龍を尋ねた折に、これを見たか聞いたかしていたろうと言われています。
大河では、世界地図を広げて、日本とアメリカの大きさの違いに驚く龍馬達の姿が、描かれていましたけどね。
この頃、万次郎は・・・・もう殆ど上手く日本語を、話せなかったようです。 それでも土佐藩の 教授館 にて、あの 後藤象二郎 や三菱の創立者となる 岩崎弥太郎 なども、万次郎から指導を受けたと言います。 この後・・・彼は、江戸へと呼び出されます。 そしてなんと、幕臣へと取り立てられて、 ペリー来航の際に旗本として召しかかえられています。
土佐清水の貧しい漁師町の少年が、奉公先を飛び出したことで、船へと乗り込むこととなり、嵐で漂着した鳥島にて・・・・アメリカの捕鯨船に助けられ。 言葉もわからないままに、アメリカでの生活が始まり。
苦労して母国へ帰ってきてからは、あれよあれよといろんな藩でもてなされて、気がついたらなんと 旗本 になっていた!?
こんな数奇な運命があるもんでしょうか・・・・( *^艸^)
とんでもない人生は、まだまだ続きます。 幕臣に取り立てられた彼は、 「中浜」 の姓を授かります。 それは、自分が生まれた村の名前でもありました。 中浜万次郎 となった彼は、通訳や翻訳・造船指導などと、精力的に働き・・・・藩校の教授にもなるが、ペリーの通訳ではスパイ容疑を疑われて、その役目からは外されています。
しかし1860年 万延元年 日米修好商条約 の批准書交換の為に、幕府が派遣した使節団の1人として、勝海舟や福沢諭吉らと共に、咸臨丸 に乗り込みアメリカへと向かいます。
彼の仕事は、 教授方通弁主務 つまり 通訳 として随行したのでした。 その後彼は、念願だった命の恩人 ホイットフィールド船長 と、再会を果たしています。 実は「龍馬伝」の年にも紹介されましたが、今でも船長一家の子孫と、万次郎一家の子孫との交流は、続いているというお話しです。 素敵でしょ・・・・・・・(#^.^#)
明治維新後は、今の東京大学にあたる 開成学校 の二等教授として、教鞭をとり・・・・・1898年 72歳で亡くなっています。
彼の人生は、まるで彼の船 アドベンチャー と同じような意味合いの・・・・・人生だったと思います。 貧しい少年が、やがて多くの時の人達に、数々の影響を与えていく。 30年以上前に、一度NHKでドラマとして、週末の夕刻に放送されていたのを、なんとなく覚えているんだけど、それから少しして・・・・英語の教科書で、万次郎の事を習いました。 龍馬と同じように、高知ではあまり彼の事を知る人はいないと思いますが、地元土佐清水では、大河ドラマへの運動も続けています。
それにはまず・・・・地元高知県の人が、彼の事をもっともっと身近に感じなければいけないんだけどね。 なんせ龍馬のこともよくわかってない県民だけに、先行きは大変だ。(苦笑)
なんたって、私も何度か訪れているこの 足摺岬 なのに・・・・・。
その看板後方に、彼の銅像があることさえ、龍馬伝の年まで知らんかった。(人´口`) この銅像は、昭和43年 1968年の7月11日に、当時の高知県知事であった 溝渕増巳 さんを委員長として、・・・・・
中浜万次郎翁銅像建設委員会 が中心となって活動して、完成したものなんだそうです。
遠くてちとわかりにくいが、右手を強く握り締めて、左手には三角定規とコンパスを握っている。 それらは船乗りの象徴ですね。
正面に「中浜万次郎」の文字が輝き、側面には経歴が刻まれている。
ここは太平洋につき出すようにして存在する場所。
万次郎もまた、龍馬や中岡慎太郎・武市半平太同様に、広い海の向こうを見ているかのように、太平洋に向かって建てられています。
銅像のある広場は、駐車場になっていてね。 車を止めてそこから椿のトンネルを、潜るようにして歩いていくと、見晴らしのよい展望台に出ることができます。 またそこから別の椿のトンネルを潜って歩いていくと・・・・・・・。 だんだんと開けた場所に辿り着き。
ガイドブックなどの写真でも見かける場所へと出てきます。 ここには皇太子夫妻も立ち寄ったとの案内板がありました。
写真のように晴れた日は、本当に気持ちの良い場所です。
これからの時期は、椿が美しいトンネルを作ってくれます。 そして、万次郎の銅像へと向かう手前には、四国八十八ヵ所の1つである。
四国霊場第38番札所である 金剛福寺 があります。 私もお守りを持っていますが、かなり御利益あると思ってますよ。 (*^^)v
実はこの「ジョン万次郎」さん・・・・
大河ドラマ 「西郷どん」に 第5,6話 にて登場します。 (#^.^#) カタコトの日本語を話し、不思議な歌を口づさむと、先ごろ発表になった記事には出ていましたが、仕方ないですよね。 アメリカへ行って長かったし・・・・・、今のように日本人も日本語学校もない時代だもの・・・・・。 記録にあるように、殆ど忘れてしまい上手く喋れなかったんだからね。 その万次郎を演じるのが、
こちらの 劇団ひとり さんです。
どうも彼の曾祖父が高知市長をしていた方とか、また幕末には武市半平太投獄を、なんとか阻止しようと動いた「野根山二十三士」 の一員だったというから驚きです! 「二十三士」とは、武市半平太投獄を阻止できずに、逆に土佐藩に追われる身分となり、野根山街道を抜けて、今の徳島県まで出るのですが、そこで関所の人間に捕まってしまい。 土佐の地まで返されて、9月3日土佐へ送還・・・・田野岡地の郡奉行所の獄舎につながれて、9月5日早朝 奈半利川 にて斬首となった人々なのです。 なんでも、あの 中岡慎太郎 の姉の旦那さん 川島総次 がその人なんだそうです。
キャスティングされていたことも、これまで伏せられていたそうで、つい最近このニュースが飛び込んできました。
土佐でも、二十三士の話しは悲しい物語として伝わっています。
田野町には、彼らの墓もあり・・・・二十三士の名の付いた場所や温泉施設もあります。 高知ゆかりの劇団ひとりさんも、これで先祖に恩返しできたと喜んでいました。
ドラマには、謎の人物として登場ですが、幕末を知る人間ならすぐわかりますよ。(笑) 今日の「西郷どん」での斉彬と斉興との戦いも、印象深いものでしたが、果たしてジョン万さんはどう斉彬と対面するのか楽しみです。 ヽ(*´∀`)ノ
ちなみに、現在世間一般に言われている「ジョン万次郎」とは、昭和12年頃に出た作品から、そう呼ばれるようになったとかで、本来は・・・・
「ジョン・マン」 「中浜万次郎」 なのです。 う~~ん、なんか映画俳優の 「ジャン・レノ」 みたいでかっこいいわぁ~~♫ ( *^艸^)










