なんか・・・面白い位置と高さに、信号機があるでしょ。 ( *^艸^)
多分ここも、雪深い場所だから・・・・その為に、商店街の屋根の下にあるのかもしれないね。
画像が古めかしくてごめんなさい。 上2枚は多分、画素数低めの
携帯電話から撮影したんだと思うが、こちらの場所は・・・・
日本橋へと向かう標識にもあるけど、日本橋から始まる街道。
三国街道 の途中の宿場となった。 新潟県三島郡与板 という場所。 今はお隣の 長岡市 と合併したようだが、昔は三島郡と書いて、「さんとうぐん」 と言った地域にあった。
この地で初めて城持ちとなったのが、あの愛の前立てで有名な・・・・
直江山城守兼続 ・・・・1番右端にいる。 妻 せん の故郷でもあり、元々は直江山の城の娘でした。 兼続は、彼女の夫が亡くなって、直江家に養子に入ったんですね。 城と言ってもその頃は、館ですかね。 (#^.^#)
藩となってからの与板に入封されたのは、1万石の牧野 そして後に入る事となる。 2万石の井伊氏 でした。
牧野家の3代目 康重 は、徳川綱吉の母桂昌院の弟である本庄宗貞 の実子で、綱吉から引き立てられて、小藩ながらも城持ちで格式高い 小諸藩 (信濃) に1万5千石 (実は3万石) にて転封されました。 その後暫くは、 天領 となっていたのですが、そこへ新たに入封されてきたのが、井伊氏だったのです。
ところで「天領」とは、藩政時代に言われていた名称じゃないって知ってた? 全国には徳川幕府が直接管理する場所がいくつかあって、
そうした場所を天領として、現在では観光地になっている所も多のだけれど、江戸時代には 幕府領 とか支配地などなど、いくつかの呼び名があったけど、そうした名称をまとめて、現在の教科書などの表記では、 「幕領」 への変更が進んでいるんだとか・・・・。
天領と呼ばれるように広まったのは、明治時代になって政府に返還されてからのお話しで、 「天朝の御料 (御領)」 などの略語なんだそうだ。 だからこの藩政の頃でいうなら、幕府直轄支配地
話しを戻しましょう。
で、・・・・暫く天領となっていた与板の地に入ってきたのが、あの徳川
四天王 の1人と言われた井伊家の人間だ。井伊直政の長男が病弱で、家康の命にて彦根藩を二男に譲る事となるのだが、その
譲られた直勝が上野安中に別家を立てる。 城主格だったが、掛川藩の頃その城主 井伊直朝 が精神欠陥にて乱心となり、養子となっていた 直矩 (なおのり) が、先祖の功により家名再興を許されて、井伊家の嫡流筋として、2万石で与板に立藩したのだ。
見知らぬ土地を、長岡の駅でレンタカーを借りて、扱いなれないナビを無視して、やっとなんとか辿り着いた与板の町。
直江兼続の山城からは、写真のような風景が広がっていた。
多分この風景は、兼続の時代からも変わっていないのではないだろうか・・・・、そう思うとたまらなく感動したけどね。(^_^ゞ
現在の与板としても、街道筋となっていた場所にある小さな町です。
上杉謙信も何度も通ったという三国峠へと続く町。
人も素朴な感じでした。
直江縁の史跡も、あちこち回ったんだけどね。
町内を走る道は、昔の対面道路で・・・・大きな車が来ると、ちとすれ違うのにも、ドキドキしてしまうような道でした。 (´へωへ`*)
直江山城守の城へは、2ヵ所の登り口があったけど、整備途中だった道とは違って、山の裏手に降りる道からは、まだこんな風景が見えていた。 下から登っても、20分前後で行けるくらいだったと思うが、慣れないと足が痛くなるかもね。(笑)
昔の人は本当に偉いね。 こんな山の山頂に館を建てて、家臣達の家もあったりもしたんだからね。 後に幕府の陣屋が置かれた与板・・・
陣屋から藩庁となり城主格となるのです。
新たに与板藩の主として入った「井伊直矩」から明治に入るまで、
与板の井伊氏は続くのだが、最後の藩主となった 井伊直安 は、
あの彦根藩主であった 井伊直弼 の四男であり、与板の井伊家に養子として入った人間でした。 東京にある井伊家縁の 豪徳寺
そこに直弼の肖像画を寄贈したのも、この直安だったんです。
それは直安が、後年の記憶を辿って描いた作品でした。
現在の当主は、「甲冑・刀剣史学研究家」 京都東山区の井伊美術館の館長となります。
与板の城は 戊辰戦争 にて、その年の5月28日の戦火で焼失してしまいましたが、大手門 切手門 はその戦火を免れました。
現在でも、文化財として別の場所に移築されて現存しています。








