現在の山形県にあった最上の城である 山形城 は、奥州攻めをした時にあの 直江兼続 が10日続けて山に登り城の様子を見ようとしたが、霞がかかっていてわからなかったという事から・・・・別名、 霞城 (かじょう) と呼ばれています。
その城に、1591年・・・・九戸城の反乱を収めた帰りに、立ち寄った人物がいました。城の主であった。 最上義光 は、その武将の為に11歳になる娘 駒姫 を、給仕役として差し出しました。東国一と言われていた駒姫に、目を奪われてしまった武将は、彼女を自らの側室にと望みます。そうして、駒姫は15歳の時に・・・京都へと向かう事となりました。
駒姫を見初めた人物とは、二代目関白となったあの・・・・・
豊臣秀次 でした。豊臣秀吉が自らの地位であった。
関白 の座を譲り秀次は、天皇に次ぐ地位に突然取り立てられたのですが、秀吉が側室の淀殿との最初の子を亡くし・・・・二番目の子が誕生した頃より。秀吉と秀次の関係が、何かとぎくしゃくとしていく事となりました。そして、秀次は・・・・石田三成の陰謀にはめられて、謀反の罪を背負わされたまま切腹して果てました。
秀吉は怒りに任せて、秀次の縁者全員を処刑する事となりました。そう、あの駒姫も・・・・何も分からぬままに、京へ着くなり縁者として三条河原にて、処刑される事となるのです。
彼女を助けようと、 助命嘆願 が秀吉の元へ送られて、それが聞き入られ 「鎌倉で尼になれ」 と、早馬を刑場へと急がせるのですが、結局すべてが終わった後でした。
秀吉は、この一件で自らの評判を落としてしまう事に・・・・
もちろん最上は、この後起こる事となる。 関ヶ原 の合戦にて、東軍の大将であった 徳川方 に味方することとなるのです。 一説によれば、秀次は惚れやすいのかどうなのか・・・・側には、30人ほどの女性がいたといいます。もちろん子供の数も多かったようですが、それら全て、男女問わずに成人から幼子までが、刑場の露と消えたのです。
15歳にて、若い命を散らした駒姫は、自分が何故こんな目にあわなければならないのかと、最後の瞬間まで思ったと思います。けれど彼女の勇気が、後の最上の家の名誉を高める事ともなりました。あの時、秀次に出会ってなければ・・・・。彼女は、もっと倖せなお姫様の一生を、送っていたかもしれませんね。
彼女が最後に詠んだという辞世の句が、 京都国立博物館 に保存されています。菩提寺である山形城下の三の丸にある・・・・
専称寺 には、 黒姫塚 という。彼女の黒髪を収めた墓があります。


