柳川衆が暮らした柳川小路・・・・3 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!



    なんで私はそんなに歩くのかって・・・・。( *^艸^)

「そりゃそこに、歴史に続く道があるからさ!!」 なんて、カッコ付けのお言葉♫ でも、それって本当かもね!歩けば必ず何処かに通じていて、普段見落としがちな風景や史跡等々・・・・偶然でも、必然的でも出会えるから・・・・・。それは、美味しいお店かもしれないし・・・・変わった建物かもしれない・・・・。あるいは、いろんな人とのコミュニケーションかもしれない。余程の事がない限り・・・・私はまず!その町を歩いてみる事にしている。だがしかし・・・・・そんな私を悩ますものが、必ずそこには存在しているのだ!それが、地元で制作された観光用だったり・・・・町歩き用だったりの地図なんだな・・・・(;´∀`)


これって、実際歩いてみたらわかるが、余りにも簡単に省略していて、地元の方に道を尋ねる時にも地元の方でさえ・・・・困惑してしまう代物!だから・・・・持っては歩くけど、あとは自分の足と感を頼りに進だけなんだな(*´∀`)♪ 


このなんとも長~~~い坂は、 中坂 と言って・・・・漱石が愛した風景を見られる新坂ができるまでは、唯一本妙寺方面へ抜けられる東西の道路でした。私が春木坂方面からこの中坂に出てくると、下から必死に走ってくる若い男の子を見つけました。( *^艸^) 心の中で、エールを贈っていたんだけど・・・・坂を撮ろうとカメラを向ける私に抵抗できないくらい・・・・大変そうでしたよ。(笑)

この中坂が、豊前街道と交わる豊後街道の参勤交代の道でもあったなんて、驚きです!こうして、各坂の入口には、その意味を記した・・・・道標なるものが、あるんだそうです。実は私は、303号線に戻ってきたこの場所で、初めて目にしたんだけど・・・・。次回はもっとこの界隈を極めたいものです。そして、坂の意味を知りたい!!


寛政年間創業の老舗醸造元である 池田屋醸造 さんは、地元ではマイケル醤油としても親しまれているんだとか・・・・・。マイケル??う~~ん、なんだこのレトロなのにポップなネーミングは・・・・・。みそ作り教室では、手作り味噌を作れるんだとか・・・・いかがですか? (#^.^#) ここは、中坂から大きな通りの303号線である豊前街道に出て、お城方面に少し歩いた右手にあります。この時は、ここも連休だからか・・・・お店が開いてませんでした。残念・・・・・。こちらのお店は、 i マークのあるまちの案内人 のお店だと、ガイドには出ていました。それって、町歩きで私のように迷ったり・困ったり・歴史を知りたい人が、気軽に立ち寄れる場所って事!名物やお土産なんかも教えてくれるとか・・・・。町歩きをする方は、覚えておくといいですね!こうした場所は、他の場所にもあるかもです。

さて、次なる歴史探索は・・・・


池田屋さんからは、お城に向かって歩いて次の四つ角を左手に入ると、写真のように奥に何かレトロな建物が見えてきます。




この建物は、明治11年に古城からこの地に移り・・・・明治41年に赤レンガ造りの建物として建てられて、当時の人々も見物客として押し寄せたと言う・・・ 熊本裁判所 です!


残念ながら当時の部分は、本館の玄関として残されているこの部分だけ・・・・


あんまり裁判所の前で、カメラを向けていて・・・・何者ぞと思われてもと、右を振り返ったら・・・・そこには、熊本城の天守閣が見えていました。 この位置で、これだけ目の前に見えるなんて・・・・、この京町と言う場所が、どれくらい高い場所なのかよくわかる風景ですよね!

では・・・・また中坂の丁度豊前街道を挟んだ反対側まで戻ってと、ここは京町一丁目の細長い脇道・・・・・。



あっ!昔はもしかして、もう少し道幅があったのかもですね。子供の頃は、本当にこうゆう脇道が大好きだったな・・・・自分の住んでた町のそうした道が何処へ通じているのか・・・・・なんて、地図を作ったくらいだもんね。今でも・・・・うん、好きだ!!(///∇//)










その道を出てきて、振り返った場所からのパシャリ!!私の背中の後ろにも通じる道があったんだけど、その先は・・・ 

 雁木坂 って言って、本妙寺 (清正の墓がある場所) へと続く急な坂に、横木を階段状に埋め込んだ為に、この名前が付いたんだとか。この写真の向かって左手・・・・


脇道を出てきたら・・・・右手だね。




曲がって進むこと徒歩数歩!

見えてきたのが、 草分天神 と言われるもの・・・・。そう・・・・ものと言ってはいけないが、今は社殿も何もない・・・・・。






奥にあったのは、・・・・

     この小さな社。

これ・・・・何を祀っているかご存知かな?( *^艸^)実は、あの加藤清正が、熊本城の一の天守の大黒柱を切り出した時に、その木の根元から現れた 天神像 を祀っているんだとか!!


同じ敷地内の片隅に、こちらの墓と彫られたものを発見!( ̄^ ̄)ゞ なんじゃらほいと、恐る恐る見てみると、なんとか親王とか公とか・・・・・?誰だよ・・・・てな感じで、調べたが? 懐良親王 (かねなが・かねよしの二通りの読み方が、) とは、父に後醍醐天皇を持ち父が、九州へその勢力を伸ばそうと送り込んだ子供の1人だったようだ。初めは 伊予国 (愛媛) に赴き・・・・あの黒田官兵衛とも関わった豊前の豪族であった 宇都宮氏 縁のやはり伊予の宇都宮氏などを味方につけて、勢力を強め!九州では肥後の八代に落ち着き・・・・・島津氏を味方にしようとしていたとある。 結局福岡県の矢部と言う場所で、病で亡くなり・・・・縁があった八代に、今は眠ると言う人物だそうだ。この 菊池武長 と言う人の事は、イマイチわからずじまい・・・・・。(´-∀-`) 多分私が思うところ・・・・八代の菊池氏と関係あるかと思うのだが、この方以外の名前なら・・・・狩野派の絵師と言う事で、江戸中期~後期に活躍したように出るんだけどね。


この墓の横の側面にも、なにやら文字が書かれていたけど、よくわからなかった。( ´ . _ . ` )シュン これ以外にも、他になんか古そうな石碑か墓かなんかあったんだけどね。次回再訪問だね。

この辺は、 裏京町通り と言われるらしいけど、丁度一番最初に訪ねた京町の愛染院から真っ直ぐ・・・・そして、少し緩やかなカーブを左にそのまま歩いてくると、右手にこの鳥居が見えているんだ。


細川忠興公が建立した 愛染院 には、息子 忠利 から預けられた愛染明王の絵があったそうです。だから・・・・今は、無いってことなのかな?(^_^;) 門前には、放牛地蔵15体がありますけどね。


この草分天神のある場所なんかも、今は閑静な住宅街ですが、江戸時代には旅館が立ち並んでいたと言う事です。ほんと・・・・・、今は車もあまり見かけないくらい静かな通りでした。









いくら連休中とはいえ・・・・人の声もしないくらい静かだった。(笑) まぁ~豊前街道通りの京町界隈は、もう少し賑やかでしたけどね。


         未だ清正公人気は絶大です!!


京町の歴史は遠く奈良時代からあったと言います。清正公は、この町に町人を移り住まわせて、要所要所に高級武士の屋敷や寺院を置きました。あらゆる娯楽と料理屋などが建ち並び、江戸の日本橋のような賑やかな・・・・城下の人々が集まる繁華街だったと言います。参勤交代の道路にあたる豊前街道や豊後街道・・・・・。特に豊前街道からの北方の要所であり、敵から発見されないように、わざと道路を凹状にしているとも言われます。


なかなか起伏に富んだ今回紹介した京町界隈は、また坂道制覇などしてみたいな・・・・もしかして、熊本で一番住みたいかも・・・・って、思ったような町並みでした。(=⌒▽⌒=)


あ~~~あの武士×武士ってネーミングの居酒屋も気になるぅ~♫


          о(ж>▽<)y ☆(笑)