土佐統一を成し遂げた元親が、まず国外に討って出たのが、海部城への弔い合戦であった。海部城を落城させた後には、国親の三男として生まれ・・・・国親の政略で香宗我部の養子となり、安芸国虎の自刃後に安芸城主となっていた 香宗我部親泰 を置き阿波南部の軍代を命じた。
この時代絶大なる勢力を誇っておったのが、阿波の三好氏であった。官領細川氏に仕えていたが、下克上を起こして細川氏を追い出し・・・・一時は、四国・・・いや畿内にまでその権力を伸ばしていった。
しかし、そんな時に・・・・あの織田信長が登場するのである! 信長を押さえ込むどころか押し切られてしまい・・・・そうした事で三好氏は、元々の領地であった阿波だけでなくて、四国においての権勢にも、少しばかり陰りが見え初めていました。阿波の三好と讃岐の十河とは、古くからの縁戚関係。 今は地元の方しか使う事がないだろう四国の阿波池田町から瀬戸内側の伊予や讃岐に抜ける道が山間を抜けていて、実は便利な場所。その池田の地に今も残る 白地 (はくち) と言う場所。高知県側から池田に向かっても、あっという間に通り過ぎてしまうような小さな町なのだが、この地にあった白地城と言う城は、なかなか落ちなかった。 元親としては、阿波・伊予・讃岐への重要な交通の要、どうしても欲しかったのである! 実はこの頃、阿波の三好長治が国主として統治していたんだが、その男・・・・国主の器にあらず・・・暴政に多くの人々が離反していた。 白地を拠点としていた大西氏は、三好長治に対して援軍を頼みたかったが、現状を知る大西氏には・・・・もはや三好よりも、元親の元へ頭を下げる方がましだと判断した。
この白地を治めていた 大西覚養 (おおにしかくよう) とは、讃岐の十河一存 (かずまさ) の妹婿であり、覚養自体は・・・・土佐の足摺岬に今もある金剛寺の住職の実弟でもあった。 元親は金剛寺の僧を使って説得にあたり・・・・それに答えるように、覚養も人質として元親のもとに、養子の上野介を差し出してきた。
しかし、この後の天正6年・1578年・・・・
徳島県藍住町にあった 勝瑞城 (しょうずいじょう) の主・十河存保 (そごうまさやす) に応じて寝返ることとなる。 存保は、三好長治の弟・・・そして、人質として元親の元へ送られた上野介は、叔父と甥の関係。 元親の家臣達は、大西覚養の裏切りを知り・・・・上野介の首を斬首すべきと訴えるが、「覚養の裏切りは憎むが、上野介に罪はない」 と言って、国元へ送り返すように指示したとあります。 1577年・・・・三好長治は家臣によって暗殺されてしまい。いよいよ混乱を極めていた阿波の国にて、十河存保は信長に救援を依頼。中国出兵中の豊臣秀吉とも連携して元親に敵対する姿勢を整えた!! 命を助けてもらった上野介は、この後・・・元親の阿波討ち入りの先陣を買って出て、白地城を落し、白地城には 谷忠兵衛 を置き・・・・阿波・讃岐・伊予三国への要としてここからまた進軍を続けていった。
信長が、初めに元親に送った書状には、 「四国の儀は元親手柄次第に切取候え」
信長としても、都や中央政権の場より遥かに遠くにある土佐の田舎武将が、ここまでやってのけるなどとは、想像もしていなかったのでしょう。阿波南部を攻略、讃岐・伊予にも攻め込もうとしている・・・・いづれはめんどくさい事にもなりうる・・・・。 明智光秀の使者が訪れた時、信長はいつかの朱印状を反故にし、土佐と阿波二郡を安堵させて、四国侵攻を中断して、上洛せよ・・・・。と伝えたが、
「存じの外なる仰せ驚き入り申す」 とあっさりと拒絶した!
信長は、三男の信孝を総大将に・・・・羽柴長秀らと四国討伐軍を編成。信長は1万5千の部隊を四国に送るために、大阪の岸和田の港に軍を集結させていた。その中からは、四国担当だった明智光秀は外され、秀吉の勢力で全て編成されていた。
6月3日・・・・長曾我部元親を討ち取るための出航を待っていた。
そして、 「ときは今、あめが下知る 五月哉」
つづく・・・・・