その為に、土佐の豪族達から疎まれて・・・・本山氏に一度は滅ぼされかけた長曾我部家は、命からがらなんとか逃げ延びた元親の父・国親が、後に岡豊城への帰還を果たした事で、再び御家再興を実現させて・・・・
1539年に、この岡豊城にて誕生した元親。
生まれつき色白で柔和な生まれで、口数も少なかった
「姫若子」 と呼ばれた男子も、 初陣より15年後・・・・土佐統一を成し遂げた時には、誰も「姫若子」とは口にせず・・・・ いつしか 「土佐の出来人」 と呼ばれるようになっていた。 その頃元親は男盛りな30も半ばとなり意気盛んな時期を向かえていました。 西側の端にある曲輪の跡には、今でも急斜面なんですが・・・・二重の堀切があったと言います。戦闘が起こった時には、西の端の出城となったのではと言われています。
今こちらには、あの坂本龍馬を明治の時代に甦らせてくれた 人物の建てた石碑が建っています。 (拡大して呼んで下さいね!)
標高47mの丘陵地には、近世城郭の天守の前身とみられる二層以上の建物があったとも、推測されています。 出土した物の中には、輸入陶磁器などもあり・・・・長曾我部家の勢いが偲ばれます。 当時、阿波・讃岐・・・今の徳島県や香川県ですが、そこには三好氏がいて・・・伊予・愛媛県には、西園寺氏や河野氏が権勢を振るっていました。
元親が次に狙ったのが、四国統一への夢! いや・・・・夢ではなくて、彼は実際にこれをやってのけたのである!! 今でも、日本の国土において・・・・森林の面積が一番多いと言われる土佐の高知県、南には太平洋と言う海原・・・・北側には四国の峰があり、耕地が少なく手柄を立てた家臣達にも、十分な恩賞を与える事ができなかった事で、新たなる領地を得る事は・・・・家臣達の生活基盤を確保する為にも必要な事でもあった。 その四国統一への進軍を前にして、事件が起こる!
1571年・元亀2年・・・・・ 元親の父・国親が、家臣の島某の妻に手を出して生ませた子供であった、四男の島 親益 (のちに島の名字を名乗ることに) 幼少期には一時期土佐一条氏の元で過ごし・・・・病弱でありながらも、武勇にすぐれていた弟が、療養の為に有馬温泉へ向かう為に船出、途中で荒天をやり過ごそうと立ち寄った国境近くの阿波海部 (かいふ) の湊にて、海部氏の勢力に討たれると言う事件が起こった。この地には、あの安芸国虎の遺臣達が身を寄せていたと言われ・・・・国虎の妻子の内、男子がやはり落ち延びて来たと伝わる。 その遺臣達に襲われた親益達は、家臣達と共にこの地で命を落す。
「さても無念の事どもかな。我一世の内に、海部の首取りて、いばりの器にして、仇を討ってやるぞ」
土佐物語に記された元親の言葉である。 元々目を患っていたとゆう親益・・・・この海部氏の事件以来、代々目の悪い人が生まれてくる・・・・と言われていたらしい。 その為、亡くなった彼らを祭る事になったとも、大正12年のこの地方での発行物に記されていると言う。 また元親自身も、後にこの地を制圧した後に、三嶋神社を建立して弟とその家臣達の霊を祀ったと言われています。 この島 親益 (親房 とも記載あるが、) の血筋が、現代でも唯一長曾我部家の子孫として生きています!
そして・・・・幕末、この島の家からも・・・・龍馬達と同じように、脱藩してその志に生きた男がおりました。
しかし、都から逃走を図った途中の美作にて、盗賊と間違われて・・・・武士の恥をかきたくないと、自ら自刃して果てたのです。 元親やその子供達の末の男子・盛親の頃までは、もちろん長曾我部と言う名字も名乗ってもよかったし、長曾我部家の家紋も・・・・墓石には彫られました。 しかし、山内家が入ってきた時から幕末までは、名乗る事も家紋の使用も禁止されています。 土佐においての長曾我部家とその一領具足達や家臣がどう生きたかは、またいづれ書かせてもらいますね!
幸か不幸か・・・ともかくも、元親は突然の弟の死をきっかけにして、阿波侵攻の契機を手にします。 正当なる戦の条件が整ったと言う事です。
時は、土佐一条氏・・・兼定を追放したと同じ天正3年・1575年の事である。 姻戚関係であった明智光秀の重臣・斎藤利三を介して、信長に嫡男・信親の烏帽子親となって欲しい事柄と、合わせて阿波への 用兵 の了解を求めるために、使者として中島可之助 (べくのすけ) が使わされた。
織田信長は、この時自身の名前の一文字から 「信」 を嫡男に送り。
「惟任日向守 (明智光秀) に対する書状を見た。よって阿波への在陣は尤もなことである。さらに忠節をつくすことがあ肝要である。 嫡男の名前の件については「信」の字を与える。即ち 「信親」 である。なお、光秀から申すことである。 謹言 十月二十六日 信長 朱印 長曾我部弥三郎殿」 この時、書状と共に・・・・左文字 (さもじ) の太刀と栗毛の駒を贈られたとあります。
弟の仇討ちと共に、まずは海部城を攻撃に出た元親・・・
この時、彼は38歳! 信長の朱印を貰ったといえども、あの信長が本当にだまって四国の田舎の武将である長曾我部元親の何もかもを許していたのか・・・・それは、この後の話し。
つづく・・・・・

