尼子の守る城となっていた上月城を見捨てて・・・・秀吉たちは、信長の命で織田を裏切った三木城へと向かっていました。 三木には、人々にも慕われた別所長治達が篭城していた。
三木の干殺し・・・・とまで言われた豊臣秀吉による残忍な兵糧攻めが行われたのが、この城であった。
信長が畿内に侵入したころから播磨国の制圧に力を貸していたが、1570年に当主となった別所長治は、古くから盟友関係にあった丹波の波多野氏に同調し、突然反旗を翻すことになる。
そしてこれをきっかけに、東播磨の武将たちが同調し三木城には、7500もの兵力が集まっていた。
これを知った秀吉は、信長からの援軍に合流して城周辺を包囲!その包囲網により補給路はすべて遮断されてしまい・・・・城内では、10ヵ月にも及ぶ兵糧攻めが続く事になった。
城内の兵が生魚を食べている!! それを知った秀吉は、徹底的に抜け穴を探させて・・・・そこを絶ち
三木城は、食料を調達するすべを失くしてしまいこの後、城内は地獄絵のようなありさまとなってゆくのです。
築城時期は不明。
「今はただうらみもあらじ諸人の命に代わる吾が身と思へば」 の歌碑や、かんかん井戸で有名な城らしい・・・。
これだけの包囲網を受けながらも、彼等はなんとか10ヵ月間戦い抜いたわけで・・・・・。
その後、長治は・・・・・一族の切腹を条件に兵達の助命を嘆願し、秀吉に受け入れられると・・・・妻や子供共々に自害したと言う。
今はただうらみもあらじ諸人の命に代わる吾が身と思へば
これが別所長治が残した辞世の句と言われています。
戦国の時代とは言え・・・・なんともむごい話しです。
でもそうした事は、これからも続いていくのです。
そして、黒田官兵衛・・・・これから貴方は、私の中で腹黒官兵衛さんになってゆく?? 致しかたないとしても・・・ちょっとね!! そして、何故秀吉が恐れたか・・・・その姿も現していくんですね! 味方にしておく間はいいが、敵に回したら・・・・恐わいと思わせた貴方の実態が、秀吉から遠ざけた・・・・。世渡り上手な方だとは思いますよ。
