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精神医療・精神保健において、

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心のこと、精神医療のこと、日々の気づきや小さな活動まで、

感じたことを綴っていく場所です。








連載 月・水・金


人間力マップ外伝1



いい子の限界

—患者から人へ—

 🌏 第1章 いい子の誕生

普通という幻想




「普通がいい」


かつての私にとって、それは空気のように当たり前の感覚でした。


人並みであること、枠から外れないこと。それが一番の「安全」だと信じていたからです。


精神科医の泉谷閑示氏は、これを『普通がいいという病』と表現されました。






私は一歩踏み込んで、その「普通」という正体のないものが、どうやって私から主体を奪っていったのかを考えてみたいと思います。




「普通」という名の虚数


社会には「普通」という基準があり、そこから外れると、私たちは何らかの言葉で説明されます。

診断、支援、分類。


けれど、そもそもその「普通」に実体はあるのでしょうか。

ある時、ある場所で診断を受けた子どもも、医師や教師、あるいは親が違えば、別の言葉で呼ばれることがあります。


そこにあるのは、絶対的な実体ではありません。

「普通」という言葉は、社会における「虚数」のようなものだと私は思います。


数学では、計算を成り立たせるために「実在しない数」を仮定します。

それが「虚数」です。


社会もまた、実在しない「普通」を基準に動いている。


問題なのは、私たちがその「存在しない基準」に、必死に適応しようとしてしまうことです。






幻想の迷宮


私たちはどこかに「正しい答え」があると思っています。


親、先生、医師、あるいは支援者。

その人たちが正解を持っていて、自分を導いてくれるはずだと。


けれど、現実は違います。

どんな権威も、不完全な一人の人間に過ぎません。


「100%正しい答えがどこかにある」


その幻想を信じた瞬間から、私は迷宮に入り込んでしまいました。


正解を他人に委ねることは、自分の人生のハンドルを離すことと同じだったからです。




責任を「引き受ける」ということ


「自分で決める」のは、とても怖いことです。

完璧に責任を取れる人なんて、この世には一人もいません。未来を完全に見通すことなんてできないからです。


だからこそ、私たちは責任を「取る」のではなく、ただ「引き受ける」しかないのだと、今の私は思います。


自分で選び、その結果がどうあれ、自分のこととして受け止める。

それが、私が手放してしまっていた「主体」という力でした。


誰かに責任を持ってもらい続けること、誰かの決めた正解に従い続けること。


そのほうが、実はよっぽど恐ろしいことなのかもしれません。




虚数の檻と、生存戦略


現代社会、特に日本は、この「虚数」という見えない檻の中にあるように感じます。


外れないこと、嫌われないこと、問題にならないこと。


その檻の中で安全に生き延びるために、私が無意識に選び取った形。


それが「いい子」であることでした。


それは道徳の問題でも、性格の問題でもありません。

ただひたすらに、生き延びるための切実な「戦略」だったのです。


家庭で、学校で、そして社会で。

怒られない方法、見捨てられない方法を必死に覚えていく過程で、私は「いい子」になっていきました。


こうして、私の主体は少しずつ、けれど確実に、失われていったのです。




奪われた「好き」と、生存の境界線


正直に言えば、私が主体を手放したのは、育った環境の影響が極めて大きかったと思います。


当時の私にとって、そう生きる以外に道はなかった。


着る服の趣味から、ふとした瞬間に湧き上がる感情まで、「そんなことを思うのはおかしい」と、一つひとつ、丁寧に否定されてきました。


自分の感覚を信じることは、親との繋がりを失うこと(=生存の危機)を意味していました。


さらに、毎日のように繰り返される夫婦喧嘩。

その荒波の中で、家庭という舟を沈ませないために、私は「いい子」でいるしかありませんでした。




「悔しさ」を認めるところから


今の私は、親と和解しています。当時の親もまた、未熟さゆえに必死だったのだと理解もしています。


けれど、それとは別の話として、自分の人生の主導権をあんなにも簡単に手放してしまった事実は、今振り返ってもひどく「悔しい」のです。


自分の感情さえ自分のものではなかった。

私の心は、私のものではなかった。

その悔しさを認めることは、自分を惨めにすることではありません。


むしろ、それほどまでに私は必死に生き延びようとしていたのだという、自分への敬意に近いものだと思っています。




主体は「奪われる」のではなく「預けてしまう」


けれど、ここがこの構造の最も残酷で、かつ救いがある部分です。


主体は誰かに無理やり奪われるものではなく、私たちが「預けてしまう」ものだということです。


たとえそうするしか道がなかったとしても、私は私の判断で、ハンドルを親に、あるいは「正解」という空想に譲り渡してしまった。


「主体を失った」と認めるのは、負けたようで、本当に悔しい。


けれど、その「悔しさ」こそが、誰かに預けっぱなしにしていたハンドルを、自分の手に取り戻すための最初のエネルギーになるのだと、私は信じています。




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