久しぶりに思いつくまま、随筆。
食べ物の好き嫌いでも、
映画やドラマ、アニメ、漫画、エンタメの好き嫌いでも、
人間同士の好き嫌いでも、
嫌だなとか怖いなとかモヤッとするポイントって人によって違くて、
その部分が好きと思う人も居るのに。
同じ部分に拒絶反応が起きる人もいる。
違いはその人の
性別属性、環境、生い立ちであったりその人の生まれ持った性質であったり、
そういうその人を構成している成分によって生まれる。
自分が「母親」になってから感じるのは、「母親」は、男でも女でもない、独立した属性だということだ。そして本当の意味で「父親」を出来る人は日本では絶滅危惧種である。
余談だが性別に関して「LGBT」は単なる趣向と価値観。
そこにいる人たちは大抵、迷っていたい、自分の役割から逃げたい葛藤中の人。生涯を通して性自認は変化していくケースが殆どなのに、モラトリアムを許容せずに、安易に名札を貼る、名乗ることを強制する政策である。
全ての人間の中に男性性、女性性があることをまず大衆が知るべきであり、そこをすっ飛ばすならば、推進する人は単に人口を減らしたいだけなんだなと思う。
その人の好き嫌いの反応はリトマス紙なのかなと思う。
反応によってああ、この人は…うん、そういうことかと、思う。
好き嫌いや地雷は誰にでもあるけど、あまりにも多過ぎる人は経験が浅い傾向がある。
でも逆に明らかに世間一般の人が顔を顰めるようなものを好きな人もまた、ワケアリだったりする。
毒の中で育っていれば、暮らしていれば、他人が毒と思うものを毒とは思わなくなる。
女の人の「生理的に無理」って言葉には育ちと人生経験が顕れている。
その感想が本質を理解して見極めた上でのものなのか、ただ単に経験不足で人としての幅が狭いから拒絶してるだけなのか、まあ、内容でその人を察する。ああ、なるほどねと。
でも案外男の人も「生理的に無理」って結構あるよね。
女の人の理屈や理論を無視した感情に対して、拒絶反応が起きる時とか。
存在を脅かされる恐怖だとか。
一つ言えるのは、異性の「生理的に無理」にお互いに鈍感だ。
あと、お互いが防御のために無意識に発する攻撃性、それが高じた時の残虐性にも。
さて、人間の好みの話に戻るが、
我が強い人に対して、疎ましく感じる人も居れば、好ましく感じる人もいる。
自由や権利を奪われて不快、恐怖な人も居れば、自らの自由や権利を捧げ、安心や幸せを得る人もいる。
好き嫌いって本当に人それぞれで、単にマッチングなんだよな。
蓼食う虫も好き好き。
ヒトにもモノにも。
そしてまた話は変わる。
ある人に対して、ある人が。
Aさんに対してBさんが、ということにしよう。
わたしから見たら何もAさんの本質は変わって無いように見えるんだけど…
最近、Aさんが思ってることを常に口にするようになった。
それに対して、Bさんが
「まるで、人が変わったかのよう…」
って言ってるのを聞いて…
へーえ!
そう思うんだ!笑
とビックリしている。
Aさんは無口な頃からいろーんなこと考えてて、それを口に出すか出さないかの選択を変えただけじゃん。
それを「まるきり人が変わった」と認識するBさんの見解は、一般的なのか?
確かに、
Aさんの変わり方に全く問題点がないとは思わないけど…それはそれとして。
Bさんは、Aさんが普段言語にして来なかった部分をこんなにも見抜けてなかったんだなと。
Aさんが今までBさんに言いたいこと我慢してただけだっての…見てりゃ分かったけどな。
今まで言わずに居たことをハッキリ言われたくらいで今更、何驚いてんの?
意味がわからない。
うーん、Bさんが他人の言語外の反応に疎いだけかな。自分のこうであって欲しいという理想像を相手に押し付ける傾向があるからな。
相手からの賛成や肯定には、
常に何%かは妥協や我慢が混じっていることを知らないのか。
…ふう、おめでたい。
些細なことで一喜一憂する他人を「え? あ、そう。ふーん。だからどうしたの?」と酷く冷めた目で見ている自分がいるのに、相手や、場に取り敢えず順応して、ごく一般的な反応を選択する自分がいつも勝つ。
いや、冷静な自分と相手に共感する自分に幅があり過ぎて。
人生経験的に他人のキャパシティも大体見抜けてしまうので、小出しにするしかないやん?
ということで日和見。
で、結局、自分迷子になる。
ただ、自分が知ってる痛みに敏感なだけで、別に優しくはないんだ。ただの気分屋。
もう1人の自分はめちゃくちゃ冷めてるし。
常に自分自身のことすら、物心ついた時から冷静に俯瞰してる。
ああ、今やらかしてるなとか、も含めて。
怒ってたり悲しんでる人に対してドン引きして、世の中もっと大変なことあるけどね、よくもそんなに何も知らずに生きて来たよねって思ったり。
けっ。
苦労と自覚が足りねえんだよ。
これだから〇〇をしたことが無い人は。底が見えたな。
…とか思ったりなんてしょっちゅう。
表に出したら単なる暴力だから、ジャッジしてる自分を俯瞰する。
ああ、わたしはこう感じたんだねと。
でも他人はどう生きてもいいでしょと。
目的地がなくても、ポリシーもなくても。
成長するのも義務じゃない。
事実を事実と認識して、嫌だな、違うな、合わないなと思っても、優劣はつけない方が、多分物事の道理はよく見渡せる。
別に効率や実績の追求、この世に足跡を残すこと、人間性の成熟、自分なりの倫理や道徳、周りに大切な人がいること、その人たちに誠実であること、そんなことだって、ただわたしがこだわりたいだけ。
昔読んだ本のタイトルがずっと心に残っている。
普通の人はどう思うんだろう。
普通の人はどんな選択をするんだろう。
普通だったらこういう時どんな顔をするだろう。
とまあ、ありもしない普通を若い頃から追いかけ続けたな。冷めてる方の自分と共感出来る人になかなか会えないから取り敢えず目の前の人に共感してみたりした。
ああ、今、場に染まっているな、とたまに外側に視線を移動しながら。
とか過去形で語ってる時点で
もうマッチングしてないんだよな。
今までの生き方と、今の自分が。
もう金魚鉢の中で飼われるのが出来なくなってきてるんだ。
そろそろ擬態出来なくなってきてる。


