子どもの頃から、わたしは人を観察するのが好きでした。


人は同じものを見ていても、全く違う感想を抱くことがある。


そんなつもりじゃないのに、他者を傷つけることがある。


相手に悪気がないのに、何故か傷付いてしまうことがある。


同じ課題を出されても、それが簡単に出来る人と出来ない人がいる。


しかし、多数派の人が簡単だと思えることを簡単に出来ない人は、

多数派の人が「難しい」と感じることを、何故かいとも簡単にやり遂げてしまうことがある。


母に「何でこんなこと出来ないの?」と言われながら、

「あなたは出来損ないだから、一生努力し続けていきなさい。それがあなたの為なのよ」と言い聞かせられながら、

わたしは育ちました。


やることなすこと全て否定され続け、

上手く出来たことに対して「調子に乗るんじゃない」と叱られました。


「たまたま出来たことがあったからって、くれぐれも、自分を出来る人間だとは思ってはいけない」とも言われ続けました。


「あなたは、努力して努力して努力し続けて、ようやく一人前よりちょっと劣るくらいのギリギリの人間になれるのよ。だから、とにかく必死に生きなさい」と言われ続けて来ました。


アスペルガー気質の父に日々思い煩いながら、カサンドラ状態の母は、それでも一生懸命にわたしを育ててくれました。


父がわたしを褒めると、母は怒りました。

「調子に乗らせないで」と。


だからわたしは、自称定型発達の、アスペルガーフォビア(カサンドラ含む)の人が大変苦手です。


アスペルガーの人は、人に寄りますが、自称定型発達者よりは好きです。


何故なら、自称定型の中には、相手だけを悪者にして、病名のレッテルを押し着せ、自分は安全圏でいようとする人が含まれるからです。実は医師や教師などにかなり多いと感じています。


わたしが自分のココロの中で、発達障害のような概念の存在を掴んでいたのは、40年前ぐらいでしょう。


それは恐らくわたしの人生のテーマであり、否、わたしだけなく、世界のあらゆる人の、人生のテーマになり得るであろうことは、15歳のころ、母が購入した「心の家庭の医学」の本で確信しました。今から31年前のことです。


日々、慣れないアルバイトをしながら(学業は教科に寄りますがそれほど嫌いではありませんでした)、ふと、これは、この問題は、いつか自分自身で紐解かなくてはならないのだと思いました。


その本に記載されていた、あらゆる精神疾患や状態、人格障害などを、とにかく読みました。


17歳か18歳の頃、図書館で「異常心理学」の本を借りて読みました。


今思えば、生い立ちがあまり幸せでない自分がそういうものに興味を持つことは、あまり精神衛生上、良くなかっただろうと思いますが、どうしても知りたいと思ったのです。

人がそうなってしまう「理由」を。


実はそもそも、3歳の頃から、自分はちゃんと大人になれるのかな?

という予期不安を抱いていました。


その頃から、家庭内に流れる不穏な空気を体感していたからです。


漠然と、自分は親と同じ年齢まで生きられるのかな?

と思っていました。


恐らくこれから本当に大変なことばかり起きるのだろうなという予感がありました。

そしてその予感は大当たりしました。


読む人を不快にさせる目的でこれを書いている訳ではないので、ここには詳しくは書きませんが、何度か、死にかけました。

心霊スポットになっているとある場所に行ったこともあります。


自殺マニュアルも、失踪マニュアルも買いました。まあ、辛うじて自殺は完遂しませんでしたが。


今、ここにこうして生きて、娘を持つ母親になっているのが、不思議なくらいです。


大人になり、少しずつ発達障害の概念が認知され始めた時は、「やっとか、遅い」と思いました。

世界はあまりにも遅くて鈍感だと思っています。


自分が、今の日本における発達障害の扱いが嫌いなのは、医療、福祉、専門家に、全てを委ね過ぎているからです。


「発達障害の誤診の精神疾患」とか、「発達障害には薬が効かない、合わない(薬剤過敏性)」だとか、一見、分かってるような通好みの意見は、以前は便利なのでよく用いていましたが…


そもそも、日本の医学に押し込めた精神障害全般の診断基準が不安定でガタガタである以上、その紛い物の「発達障害」という疾患、障害名が存在するという前提の議論を重ねても、虚しいだけです。


今、現在に存在する言葉を借りて、出来るだけ語弊を最小限にする努力をしながら、自分の考えを敢えて書くならば、

(本当は、これすら、書く必要は無いと思っています。)



HSP気質(繊細さを抑圧して鈍感になった人を含む)の人間が、外的ストレスに晒された際の一過性の状態を、日本の医学は精神障害とし、発達障害やあらゆる精神疾患名をつける。

子育て、働き方、人間の生き方、人生そのものの悩みや問題を無理矢理、医療という狭い枠に押し込めるのが今の日本のシステムである。

診断を受けることにより、医療によって病名が作られる。薬を処方され、飲み続けることで、悪化の一途を辿る。

幼少期から青年期の生育環境が、ストレスに向き合うその人のレジリエンスを左右する。

服薬する、医師の指示に従う、障害者という立場を受け入れて生きることで、ますますストレスに打たれ弱くなっていく。

したがって、一過性の状態から立ち直るには、脱医療は必須であり、ストレスに対する脆弱性の主な原因の一つとなっている親、環境からの自立、精神的な独立、時には逃走、避難も必要である。

精神障害全般は、本人のみの問題ではなく、親との関係性のなかに病理があり、それを親は自覚し深く反省しなくてはならない。


しかし、一度でも精神疾患や発達障害と診断されると、自分を病気や障害と認めて、病名を受け入れて生きる、という生き方を日本の医療は本人に強要する。


今の日本がその状態である以上、日本における発達障害の概念の広まり方は、良し悪しである。

寧ろデメリットのほうが多いのかも知れない。


発達障害の概念は、自他を客観視するために一度は知っておくのは良いが、いずれ概念ごと、捨て去るべき仮の教え、考え方。


であると感じている。


診断が発達障害であっても、処方された覚醒剤や統合失調症治療薬を服薬することによって、じわじわと悪化し、薬剤性統合失調症となっていく点を考えると、最早、日本全体が精神医療という闇に蝕まれているとしか言いようがない。



以上が、苦節40余年のわたしの研究報告でした。



尚、ここには、知的障害、外傷による脳の損傷や老化による脳の気質的な障害は含まれません。

理由は、研究対象の近くに長くいたことが無いから、ハッキリとは言えないのです。

まあ、それらさえも含めて。

環境、またはその人に起こった出来事が全てでしょうけれどね。若しくは、システム、世の中の流れ、社会そのもの。

当事者自身に責任を取らせることを避けるならば、そうなりますね。



…どんなに努力しても、やはり語弊は生まれるから、本来は書くべきでは無いのかも知れませんが。今の時点でのわたしの見解をここに記しておきます。



敢えてPTSDという言葉を省きました。

概念として正確さはあるけれど、言葉の手垢があるし、その人の枷になり得るから。



偉そうになんやかんや言ってますが、わたしは医療•心理に関して公的資格は持っていないし、持つ予定はありません

乙四と毒劇物は持ってるんですけどね。

…まあ、危険物ですよね、心理って。



P Sナリくん誕生日おめ!!



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