昭和十二年七月七日、盧溝橋事件が発生し、以後、北支事変、支那事変と日支の戦闘状態が拡大していきます。

そもそも盧溝橋事件は中国共産党の陰謀によって引き起こされた事件だったようです。共産党と国民政府と蒋介石を支援する米英独ソによる共同の日支離間策こそが支那事変だったのです。

しかし、敗戦国の悲しさ、極東軍事裁判によって全ての悪を日本が引き受けることになりました。この似非裁判によって捏造された歴史が極東裁判史観です。この史観は戦勝国の国々にとって都合よく、当時は日本の一部だった韓国や北朝鮮にとっても反日の材料として好適なのです。

戦争に負けると本当にひどい目に会わされるものです。

とはいえ、戦線を徒に拡大させていった責任の一端は疑いようもなく日本側にあったと言えるでしょう。北支だけで止められなかったのか、上海だけで止められなかったのか、南京までで止められなかったのか、と思います。

当時、参謀本部作戦部長だった石原完爾少将は戦線拡大に反対でした。参謀総長梅津美治郎大将も北支で止める方針でした。

それが拡大に転じた理由は、むしろ政治側からの軍部に対する要請だったようです。支那事変での戦勝が大々的に報道されると、国民が喜び、内閣への支持が高まる。政権担当者にしてみれば「もっとやってほしい」ということだったようです。

何でもかんでも軍部の責任にしていては歴史の教訓は得られません。当時の政党政治家や文官の決定が日本を誤らせたという一面があったように思います。