司馬が書き残した昭和のエッセイは、貴重な歴史の証言として残るであろう。もちろん証言が無条件で歴史になるわけではない。歴史家の厳密な検証をへて、歴史の中にとりこまれるであろう。
余談ながら、世間には証言がそのまま歴史であると勘違いしている頓珍漢がいる。私の偏見では左翼に多いと思われる。共産党一党独裁下の中国で中国人の証言を数多く収集し、それを鵜呑みにし、これが歴史だと主張する本多勝一著「中国の旅」、韓国籍の老婆から証言を引き出して従軍慰安婦強制連行があったと言い張る参議院議員福島瑞穂など。彼等は歴史の何たるかを知らないに違いない。証言は歴史家によってきびしく吟味され、検証されねばならない。その検証を手抜きして都合の良い主張をする輩はまさに歴史の捏造者である。
そんな愚劣な連中に比べれば司馬遼太郎は良心の人であったといえる。自身の経験を歴史としては書かず、あくまでも証言として書き残した。司馬は昭和の歴史小説を書きはしなかった。
「なぜ日本はあのような愚劣な戦争をしたのか」という疑問への解答は、数々の歴史小説群の中に比喩的に書き込まれているように私は思う。対米英蘭戦争へと追込まれていく日本の姿は、「峠」の長岡藩や、「関ヶ原」の石田三成や、「城塞」の豊臣家と重なって見える。日米交渉におけるアメリカの姿は、「城塞」における徳川家康のようでもある。勢いばかりで支那事変へと突入していった帝国陸軍の姿は、「項羽と劉邦」の項羽と重なるし、満州事変を敢行した関東軍の姿は、幕末の志士たちの不羈奔放な行動に似ていなくもない。四国の雄たる長宗我部元親は、織田信長に挑戦したが、その後、豊臣秀吉には臣従した。司馬が「夏草の賦」を書いたとき、その脳裏には日露戦争への肯定と、満州事変や支那事変に対する非難があったのではないか。江戸期を通じて悪人とされてきた石田三成の名誉回復を主題とした「関ヶ原」は、極東軍事裁判に対する批判ではなかったか。私は思うのだが、司馬は書くべきほどのことは書いたのである。
司馬は戦後の日本について「ぱっと明るくなったような」と書き、肯定的に評価している。しかし、新聞記者だった司馬は占領軍の検閲に何ら不自由を感じなかったのだろうか。驚異的な読書家の司馬は、占領軍が行なった焚書に気づかなかったのだろうか。極東軍事裁判の違法性についてまさか司馬ほどの博学が気づかなかったはずはあるまい。だが、司馬はこうした事柄についてほとんど書いていない。ただ、あらゆる史観というものに対する否定的見解を書き、アメリカの極東裁判史観にも、共産党のマルクス史観にも、日本の皇国史観にも、中国共産党の抗日史観にも賛成しなかった。そして、パール判事の意見書に対して肯定的見解を書き残している。
戦争末期の日本政府は、戦争に勝つため、ありとあらゆる資源を動員しようとし、その結果、国民に対して様々な加虐をせざるを得なかった。徴兵、重税、勤労動員、物品供出、はては自決。敵にやられるのはまだ納得できる。しかし、なぜ自国政府によってかくも無残に虐待されねばならないのか。これこそ国家総力戦のもたらす銃後の悲劇である。戦後の日本が、「何でもかんでも軍部が悪い」という極東裁判史観をいとも容易に受け容れてしまった理由には、帝国政府による国民酷使という事実があったであろう。そこを上手く利用したのが占領軍のプロパガンダである。政府指導者と国民との間に楔を打ち込み、両者を分断して国際法的には違法な極東裁判を正当化するのに成功した。戦後の新聞世論が反政府一色になっていく理由はここにあった。そのような世論に司馬遼太郎が同一化していたとは思わない。しかし、「戦前に比べれば、まあいいのではないか」とおおらかに受け容れていたように思われる。
アメリカ、ソ連、中国、韓国、北朝鮮、これら周辺国の嘘と欺瞞、そして日本の冤罪、これらを白日の下に曝すことを憚らせる時代の空気があったに違いない。「空気」などという言葉を使うこと自体が欺瞞かも知れない。「空気があった」などというものではない。占領軍による具体的で厳格な占領政策があったと言うべきであろう。日本人は言論を封じられ、歴史を奪われた。司馬であれ、誰であれ、日本人はその政策の下に生きたのだ。
最後にもう一度結論を。司馬遼太郎は、昭和の歴史小説を書きはしなかった。ただ、司馬自身の経験を証言として書き残した。そういうことだったのではないかと私は思う。
余談ながら、世間には証言がそのまま歴史であると勘違いしている頓珍漢がいる。私の偏見では左翼に多いと思われる。共産党一党独裁下の中国で中国人の証言を数多く収集し、それを鵜呑みにし、これが歴史だと主張する本多勝一著「中国の旅」、韓国籍の老婆から証言を引き出して従軍慰安婦強制連行があったと言い張る参議院議員福島瑞穂など。彼等は歴史の何たるかを知らないに違いない。証言は歴史家によってきびしく吟味され、検証されねばならない。その検証を手抜きして都合の良い主張をする輩はまさに歴史の捏造者である。
そんな愚劣な連中に比べれば司馬遼太郎は良心の人であったといえる。自身の経験を歴史としては書かず、あくまでも証言として書き残した。司馬は昭和の歴史小説を書きはしなかった。
「なぜ日本はあのような愚劣な戦争をしたのか」という疑問への解答は、数々の歴史小説群の中に比喩的に書き込まれているように私は思う。対米英蘭戦争へと追込まれていく日本の姿は、「峠」の長岡藩や、「関ヶ原」の石田三成や、「城塞」の豊臣家と重なって見える。日米交渉におけるアメリカの姿は、「城塞」における徳川家康のようでもある。勢いばかりで支那事変へと突入していった帝国陸軍の姿は、「項羽と劉邦」の項羽と重なるし、満州事変を敢行した関東軍の姿は、幕末の志士たちの不羈奔放な行動に似ていなくもない。四国の雄たる長宗我部元親は、織田信長に挑戦したが、その後、豊臣秀吉には臣従した。司馬が「夏草の賦」を書いたとき、その脳裏には日露戦争への肯定と、満州事変や支那事変に対する非難があったのではないか。江戸期を通じて悪人とされてきた石田三成の名誉回復を主題とした「関ヶ原」は、極東軍事裁判に対する批判ではなかったか。私は思うのだが、司馬は書くべきほどのことは書いたのである。
司馬は戦後の日本について「ぱっと明るくなったような」と書き、肯定的に評価している。しかし、新聞記者だった司馬は占領軍の検閲に何ら不自由を感じなかったのだろうか。驚異的な読書家の司馬は、占領軍が行なった焚書に気づかなかったのだろうか。極東軍事裁判の違法性についてまさか司馬ほどの博学が気づかなかったはずはあるまい。だが、司馬はこうした事柄についてほとんど書いていない。ただ、あらゆる史観というものに対する否定的見解を書き、アメリカの極東裁判史観にも、共産党のマルクス史観にも、日本の皇国史観にも、中国共産党の抗日史観にも賛成しなかった。そして、パール判事の意見書に対して肯定的見解を書き残している。
戦争末期の日本政府は、戦争に勝つため、ありとあらゆる資源を動員しようとし、その結果、国民に対して様々な加虐をせざるを得なかった。徴兵、重税、勤労動員、物品供出、はては自決。敵にやられるのはまだ納得できる。しかし、なぜ自国政府によってかくも無残に虐待されねばならないのか。これこそ国家総力戦のもたらす銃後の悲劇である。戦後の日本が、「何でもかんでも軍部が悪い」という極東裁判史観をいとも容易に受け容れてしまった理由には、帝国政府による国民酷使という事実があったであろう。そこを上手く利用したのが占領軍のプロパガンダである。政府指導者と国民との間に楔を打ち込み、両者を分断して国際法的には違法な極東裁判を正当化するのに成功した。戦後の新聞世論が反政府一色になっていく理由はここにあった。そのような世論に司馬遼太郎が同一化していたとは思わない。しかし、「戦前に比べれば、まあいいのではないか」とおおらかに受け容れていたように思われる。
アメリカ、ソ連、中国、韓国、北朝鮮、これら周辺国の嘘と欺瞞、そして日本の冤罪、これらを白日の下に曝すことを憚らせる時代の空気があったに違いない。「空気」などという言葉を使うこと自体が欺瞞かも知れない。「空気があった」などというものではない。占領軍による具体的で厳格な占領政策があったと言うべきであろう。日本人は言論を封じられ、歴史を奪われた。司馬であれ、誰であれ、日本人はその政策の下に生きたのだ。
最後にもう一度結論を。司馬遼太郎は、昭和の歴史小説を書きはしなかった。ただ、司馬自身の経験を証言として書き残した。そういうことだったのではないかと私は思う。