ずっと以前の
「シルバー川柳」です


お迎えは
どこから来るのと
孫が聞く


この作品、なんだか好きで
ずっと記憶しています



(シルバー川柳は、全国有料老人ホーム協会主催。
上記は、2011年・第11回入選作品。愛媛県の
眞鍋ミチ子さん作、73歳)



"あの世からのお迎え"の話は
老人たちの茶のみ話には
よく登場しますね



江戸時代後期の禅僧・画家
仙厓義梵(せんがい・ぎぼん)さんの
言葉もありますね


60歳は人生の花。
70歳で迎えが来たら、留守だといえ。
80歳で迎えが来たら、早すぎるといえ。
90歳で迎えが来たら、急ぐなといえ。
100歳で迎えが来たら、ぼつぼつ考えようといえ。



私もいつのまにか
老年といわれる時期を
歩いております


義梵さんのことばにあるように
人生の花の時期、60代の日々を
最高な時間と感じ
暮らしています


さて、古い資料にあった
美術評論家の故・坂崎乙郎さんの
本のコピーをたまたま目にしましたので


今回は、そこからの引用などで
書いてみます


ただ、このコピーは
知人からいただいたもので
中途で切れており
全容がわかりません


いずれかの著作の、
283頁から284頁の

「原風景を創る」のなかの
[浮遊感覚]の部分です



歌人・斎藤茂吉さんの
亡くなる前年(71才)の歌が
紹介されています

最後の歌集『つきかげ』に
おさめられている歌だそうです


なすのしる
このゆふまぐれ
作りしに
ものわすれせる
ごとくにおもふ


坂崎さんは
はじめて、この歌を読んだとき

「全体に朦朧としていて
とらえどころのない思いがした」
と書いています
 


そして、初読から20年後に
この歌をあらためて読んで
つぎのように解釈しています


夕方ちかくなって、ふと、
茄子の味噌汁を食べたくなり、
自分で台所に立って
それをつくった。

味噌汁ができあがり、褐色の、
あるいは土色の汁のなかに、
その形もさだかでない
茄子の実がうかんでいる。

そこまでは
記憶しているのだけれども、

それから何があり、
どういう風に気分が
かわったのかわからない。

折角つくった味噌汁を
飲むことを忘れていた。


続いて


自分のいのちを
支えている世の中の全体が、
土色の味噌汁のように、

そのなかに輪郭を失ってうかぶ
茄子の実のように、

おぼろに、
あるかなきかのごとくに、
渾然として見えてきた、

そういう夕暮れの景色が
この歌に写されているように
思うのである。


坂崎さんは
斎藤茂吉さんの歌を
解釈しながら


人は、耄碌すると、
「はなはだ具合のわるい状態」に
なってしまうが

その状態のなかに
「人生の実相がひそんでいる。」
「多少とも迷惑に違いないけれども」
だからと言って
「切り捨てるな」と書いています


茂吉さんの歌にあるような

認知の衰えの兆しに感じる、
存在の揺らぎや
曖昧さのなかに
本当の時空(時間・空間)が
ときとして
顔を表しているのではないか、と


私の解釈は追いつかないのですが
言わんとしていることの一端は
うすぼんやり、理解できます




また、坂崎さんは、
同じ文章のなかで
唐代の詩人・杜甫の

「小寒食舟中作」の一節を
紹介しています


春水、船は天上に坐するが如く
老年、花は霧中に看るに似たり



坂崎さんの解釈では

水かさの増した春の水にうかんでいると、
船は天上を行くようにさえぎるものがないし、

老年になって花の前に立っていると、
無数の花が霧のなかのようにおぼろに見えてくる。


として、この部分については、
「浮遊感覚」「ただよう感覚」といってもよいが、としています


私のコピーは上述したように
ここまでしかない!ので
次のくだりや結論は、不明です


私は、この"老年"の部分に
とても心ひかれ

思いが一人歩きし



  霧のなかにかすかに
  浮かび消える花

  花だけでなく

  記憶として持っていたはずの
  ものや、その他何もかもが

  霧のかなたに
  あるように感じられるような
  心情

をイメージしてしまいました


90歳をゆうに越えた
私の大先輩は


「生きているのか死んでいるのか
時々、分からなくなるときが
ありますよ」と笑って話して
下さいました


また、ある方のブログで
「私は生きていますか、死んでいますか」と入所者に問われた経験も
読んだことがあります


笑い話のようですが
自身の存在の不安定感なの
でしょうね



掴もうとして掴めない
判然としない存在の境地にあって


支えられる、頼りとするのは

手肌の"温もり"でしょうか


上述の詩の全文を
「漢詩と中国文化」
というネット資料から借用し
掲載します


杜甫の人生の背景などを
知ると、味わい深い作品に
感じます



さて、今日のブログに
関連づけて、認知症の方々への
取り組みを、
一つだけご紹介してみます


認知症の方々が接客する
「注文をまちがえる
 ゆいまーるな喫茶店」

(沖縄タイムス 2019-11-7)

愛を感じるネーミング!

「役割をつくることは、
認知症ケアの一環」
と記事にあります


沖縄県内各地を回って
実行委員会が
開催しているようです


ゆいまーる、とは
沖縄のことばで、助け合いや
ともに働く、"結"を意味します


今日のブログは
まことに曖昧な、揺らいだままの
引用多めのものになって
しまいました


追記⭐️
坂崎乙郎さんの著作は未読で、
私が読んだのは、
知人が下さった本のコピー2編。

もう1編は
『画家のまなざし』のなかの
「アンリ・ぺリュショのこと」。

そのなかに、こんなことが
書いてありました。

「作品とは、体験の、予感の
傷痕である。われわれが絵から
感動をうけるとは、自分でも
似たような傷痕の有無を
確かめることであって、
ただ美しいと叫ぶためではない。」

あまりにも素敵で、なるほど、と
思うことがありましたので、追記させていただきました。




   


こんにちは、皆さま(ニャン)。

本文が長くなりましたので
今日のマリンは少しだけ。


マリンの草。

市販の猫草を試したあと

庭のレモングラスの若草を
あげていましたが

いまは、この草を
上げています。




草取りで捨てていたのですが


マリンが食するようになって
大切な草になりました。笑


飛び出ている穂は
軽くひっぱると
すーっと抜けます。


イネ科の...なんでしょう?
メヒシバ(雌日芝)?


今朝のマリンは
わたしの仕分け作業が待ちきれず


テーブルに飛び乗ってきて
クンクンと匂いを嗅ぎ
食べ始めました。 笑






草食後の"おすまし"です。

本当はテーブルに乗っては
ダメと言っているのですが。笑



老年について、生と死について、
たくさんのブログからも
学ぶことが多いです。


いま
たまたま読みはじめたのが
この本。
いつか感想を書く機会を
得たいと思います。




野にある動物たちが
自由に食を得て過ごせること。

人間の関わりから
逃げようがないまま
尊厳なく生かされたり殺される
動物たちのいのちの環境を
変えたい。


人間中心、経済中心の思考が
動物たちの悲劇を
生んでいること。


多くの方々が訴えていることに
耳を傾けてほしいです。



テレビなどで
愛玩動物の
ただ可愛いだけを見せる
番組が増えて懸念しています。


9月は、グァバの時期。
今年はご近所さんから
3回、いただきました。



香り、大好きです。


採れたてのバナナも
別のご近所さんから
いただきました。


ハイビスカスの枝を
挿木用に差し上げたので
きっと、そのお礼です。


4日ほどで、食べ頃に
なりましたよ。





少し酸味のある美味しいバナナ
でした。

この木から収穫されたみたいです
(盗撮 笑)



庭の花は
クワンソウ(アキノワスレグサ)
沖縄では、眠り草ともいい
眠りを誘う薬草です。


しばらく気分が上がらない日が
続きましたが
もう、元気になりました。


皆さま、日々、お気をつけて
お過ごし下さいませ。

今日もご訪問、
有り難うございました。