江戸時代の琉球をめぐるうち
かの有名なペリーに
出会いました


記憶をたどれば
私がオキナワに来た1980年代頃まで


那覇には、「ペリー前」
という名のバス停があり
ひと頃、毎日、車窓から見かけたものです


ペリーの名を冠した美容室は、今もあるようです


歴史の名残り


ある夕べ
ふらりと迷いこんだ
泊(とまり)の外人墓地


墓碑銘を見たことはなかったのですが


そこには
この地で亡くなった
漂流難民やカトリックの宣教師のほか

ペリー艦隊に属する兵員も
眠っていると知りました



(上記2葉、『19世紀における琉球をめぐる英米文学』外間政章著より借用)


日本開国の使命を託された
マシュー・ペリー提督は
アメリカ海軍東インド艦隊を率いて日本遠征の途次

1853年5月、上海経由で
那覇に初入港


ペリーは、当時59歳
堂々とした体躯だったようです


6月6日
那覇・泊港北岸に上陸

首都・首里まで行軍し
首里城を公式に訪問

琉球側が制止するのも聞かず、強引な訪問だったようです

(同上より借用)

同年(53年)7月
那覇から浦賀・江戸湾へ

幕府との交渉が難渋したため、再び、那覇に引き返し

那覇から上海・香港等を訪れたのち

54年2月、那覇経由で江戸へ

54年3月、神奈川で
日米和親条約を結んだのち

函館、下田を経て
再び那覇へ

同年7月、琉球と
琉米修好条約を結んでいます

つまり
那覇に数回、寄港滞在し
条約交渉等のための基地として利用しているのです

まあッ!

琉球は
地理的にいつの時代も

覇権を企む国・権力にとって
要所なのですね


ペリーは、遠征に当たって

1816年に来琉した
バジル・ホール(英人)の地図などを利用したらしく

琉球のことを
常に「Lew Chew」と
綴っているようです


ペリーの琉球滞在時の
エピソードには
興味をひくものがたくさんありますが、今回はその多くを割愛いたします


総勢200人余
突如、那覇に現れた
ペリー提督率いる大艦隊に
対応したのは

薩摩の在番役人と

琉球王国の通事
板良敷朝忠という人です
(いたらしき・ちょうちゅう)


北京に留学経験があり
中国語に堪能だった彼は、当時、36歳


当時の琉球は
薩摩藩支配下にありながら

一方で中国とも長い関係を築いていました

ペリーは
琉球では中国語が普及していると思い、交渉は、すべて中国語で行われたとのこと

交渉内容は
板良敷により、琉球語に訳され、琉球王(最後の王・尚泰)に伝えられました


一方、ペリー側の通訳は

香港から船に乗った米人学者・ウェルズ・ウィリアムズ博士でした

博士は、中国語から英語に訳して伝えたようです

(同上より借用)


ペリー来航の2年前
土佐のジョン万次郎が海外からの帰途
琉球に漂着しましたが

そのときも
薩摩役人とともに
板良敷(のち牧志姓)が対応し

この時は、英語で取り調べしたようです


板良敷は数奇な運命を生きた人

宣教師ベッテルハイムの
琉球語訳"聖書"にも助言
したとされますが

ある疑獄により投獄されます

最後は薩摩藩にその能力を
買われ

薩摩の琉球館に連れて行かれる、その船旅の途中で

海に身を投げたと言われています


琉球王国の歴史の大舞台で
生きてきた彼の胸中はどん
なものであったか

精神を病んでいたとも
突き落とされたとも言われ
死の真相は謎のようです


ペリーに随行した画家ハイネが描いた当時の琉球の風景は、郷愁を誘います

記録したテイラーの文章も
当時の琉球を美しく
描いているようです


今回、主に参照させていただいた本です
著者の熱い思いを感じました

(1986年発行。著者は明治31年、那覇市泊に生まれる。沖縄戦では、米軍司令官の要請により、洞穴に潜んでいた住民の救出作業に従事。元琉球大学教授)


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