(河出書房新社『文芸読本 太宰治』口絵 1975年刊)


急に思い立って
太宰治の「富嶽百景(ふがくひゃっけい)」を読んだ。


富嶽とは、富士山の別称という。


昭和13年(1938)、太宰は甲府の御坂峠にある天下茶屋に2カ月ほど、滞在した。


「富嶽百景」は、その折の富士の姿に、心象などを絡めて展開した小説で、太宰30歳の時に発表した作品である。


決して泣くような小説ではないのに

太宰の語りに沿うているうちに、なぜだか、しんみりするものがあった。


それは
暗い、ジメっとする前書きのあとに、


「昭和13年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。」


と書いていて、


この短い行のかもす、味わいのせいかもしれなかった。味わいは、ずっと感覚として残るものなのであろう。


(上記書)


誰もが褒め称える富士山に対して、「かなわない」「偉いなあ」と思いながらも、斜に構えて絡みつくような主人公ではあったが、


芸術・文学を思いわずらい
ふさぐ気分を持て余し
最後に頼ったのは


「傲然と構えてゐる、大親分のやうにさへ見へた」揺るぎない、富士の山。


ぬぐえぬ煩悶を、そうだ、「富士にたのまう」と思いつき、ようやく軽い気分を取り戻せたのだった。


ところどころに出てくる15歳の茶屋の娘とおかみさんの描写が、また、よくて


「朝に、夕に、富士を見ながら陰鬱な日を送って」いる主人公に、さらりと素朴な優しさを投げかける二人なのである。


「富士には月見草がよく似合う」


この有名なことばが綴られる文脈は、また何ともいえぬ共感の、一コマであった。


いじけたように富士に対峙している主人公が、すり寄りたくなるほど

心、富士にあらずの、毅然とした態度の「老婆」が出てくる場面である。


2回ほど読んで、小説から離れてみると、この場面はやはり一番、鮮明な印象を残す。


さて、太宰のいう月見草は
「黄金色」とあるので、宵待草のことだと思う。


私の記憶にある月見草(宵待草)は、素朴ながらハッとするほどの美しさを放ち、河原に咲いていた。


太宰が書いたのは

たった一輪で咲いている路傍の月見草で


「...富士の山と相対峙し、みぢんもゆるがず」の趣きが伝わってくる情景であった。


パピナール中毒(麻薬性鎮痛剤)や胸部疾患(昭和11年)
小山初代との心中未遂や離別(昭和12年)

そして
石原美智子との見合い・結婚へと続く、昭和13年前後の太宰の、心象によって結ばれた富士の山。


名作とされるこの小説は、そこはかとなく時代を感じさせ、観光地の風情・佇まいが、読後にも色あせずに残り、私の読解は深くないけれども、なるほどと思った。


さて、ブログ冒頭の、なぜ急に、太宰の「富嶽百景」かといえば


前々回のブログで触れた
徳川綱吉の縁で、江戸時代をめぐるうちに

松尾芭蕉や葛飾北斎へとつながり

さらに、私の住むこの島とも絡んで

北斎が挿絵を書いた、琉球の為朝伝説のある「椿説弓張月」(曲亭馬琴)にとび 

北斎には有名な富士のほかに、「琉球八景」があったな、とチラリと思い

まずは、と未読だった「富嶽百景」に辿りついたという訳なのである


そのあと今度は、津軽富士とよばれる岩木山のことを「津軽」では、どう書いていたかが気になり


さっそく
「津軽」をめくって...
とうとう丸ごと再読


お陰で、以前には気づかなかった、たくさんの事柄がよく見えて、得がたき時間となった。


今回はとくに
本編最初のことばに
心奪われた。


太宰のなかでの"年月"を
感じたのかもしれない。


「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」


こんな書き出しではあるが

出版社の誘いに応じ

「生きているうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで見て置きたくて」実現した、昭和19年の帰郷旅。太宰34歳から35歳。

「津軽」はその時のことを題材にした作品である。



(新潮文庫 1974年版 38刷)

くだんの、岩木山の場面は


「『や! 富士。いいなあ』と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている1625メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮かんでいる。...(略)」


「したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。」


『津軽」は、絶妙の筆致
ひとり漫才の感もある


実にキザな物言いをふところに隠し、あてが外れてみたり、放ったことばに身悶えしたと書くあたり、ああ太宰さん! 私もおんなじです!と、同調の気持ちをだらんだらんと垂れ流したい気分も味わった。


地元を褒めたたえたあとに、「活気がない」などと書き、「まさか殴られないだろう」と書くところなど、作家としての自負をかかげて、地元に心開き、甘えて、解放・開放されたような気分も感じられる。


勢い余って(いや、余ったフリをして)、ところどころに芭蕉(松尾)の行脚のオキテを引き合いに出し、それにそむき続け、「やっちゃった」と書く太宰がそこにはいる。


まるで「自分で自分をついばんでいる」(太宰夫人のことば、後述)ような自意識。


今回、大声で笑ったのは、


ある人が、三つになる息子を小説家にしようと、名前も、文の男(文男)とつけたと話し


頭の格好が「どうも、あなたに似ているようです。失礼ながらそんな具合に、はちが開いているような形なのです」と言われるところ。


「私の頭が、鉢が開いているとは初耳であった。私は、自分の容貌のいろいろさまざまの欠点を残りくま無く知悉しているつもりであったが、頭の形までへんだとは気がつかなかった。自分で気の附かない欠点がまだまだたくさんあるのではあるまいかと、他の作家の悪口を言った直後で」不安になったというくだり。


いま、書き写していても、笑いがこみあげる。


はにかみ、キザ、素直
読めば、笑いあり、なみだあり、の旅行記。


クライマックスの、子守だった「たけ」との再会場面では、毎度のことだが、ワッとあふれてくるものがあった。


さて前述した夫人の太宰評

Wikipediaによれば

美智子夫人は、見合い前に東北・北海道を旅し、青森で『虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ』を購入して読み、見合い後には太宰から贈られた『晩年』のほか、数作を読んでいる。


「自分で自分をついばんでいるようだと感じた」という夫人の感想は、言いえて妙(みょう)、

人間・太宰をつかんでいるように思える。

(美智子夫人との結婚を決意し、井伏鱒二氏に送った誓言文。小山初枝にも触れられている。上掲『文芸読本 太宰治』より)

ついでに
滅多にない機会なので
下記に「椿説弓張月」の蔵書?をアップします。

言わずもがな、未読です。
これを機会に読んでみたいと思います!

(中央公論社 三島由紀夫著 1969年)


(舞台装置図・国立劇場舞台美術研究会〔村山和之〕)




(筑摩書房 1960年刊。以下、写真同)

(琉球部分、挿絵・葛飾北斎)


皆さま
お訪ね下さって有り難うございます。

動物や身辺のことなども書きたいけれど、今回はこんな感じになりました。

書き上げてみれば
思いのほか、楽しかった太宰旅!

まだ富士山があまり馴染みでなかったころ、たくさんのブログで、富士山を拝見していたんですよね。これからは、意識が違って見えるだろうと思います。

最新では、ヒデのブログ《湘南の風景》さんのブログ(9月30日)で、富士山と月見草のコンビを拝見しました。

私が富士山を直接見たのは、40年以上も前のこと。本栖湖から眺めたきりです。


さて、ニュースやその他、心痛めること多くありて...の日々です。なので今日は、こころのままに彷徨いました。

闘病中のブロ友さんが少しでも回復できますように。元気な方は、ますます元気でありますように。
身動きとれないでいる動物たちに、心を寄せて眼差しをと、願います。