ベトナム戦争のころ


アメリカ兵のいる
基地の街の夜は


にぎやかで


米兵相手の飲み屋では
毎夜
金庫がわりのバケツに
ドルが 溢れたという


それは
戦場へと向かう
明日をも知れぬ命の
米兵たちが


じっとしていられなくて

おそれを
紛らわしていたんだ、と
いわれていた


ベトナムに行く兵士は
よく記念撮影をした


写真館には
受けとりに来ない写真が
たくさんあった


ジョニーも
トミーも 死んだんだ
きっと...


なかには

米本国から


写真館の引き換え証の入った
手紙が届くこともあった


息子の遺品のなかに
引き換え証が入っていたから
写真を送ってくれないかと...


この話には
心 揺さぶられた




わたしが
基地の街に
出会ったのは


ベトナム戦争から
だいぶ
あとのことだったが


街は
さいごのともしびを
燃やしていた


朝、外に出ると
ノーパーキングと
英語で書かれた看板の脇に


米兵が寝ていたりした


真上から
こわごわ顔を見つめたことが
ある


夜のネオンも
まだ
チカチカ していたし


バナナ、バナナ!
と叫ぶ、呼び込みの声も
聞こえていた


バナナショー...?!


よくわからないけど

夜は 
そんな喧騒の街だった


仕立ての洋服屋さん
刺繍屋さんも多かった


スーベニアショップでは


サヤに装飾を施した
オモチャのような
カタナや

チャイナ服も
売られていた


アジアはどれもこれも一緒
ということか


その頃は
インド人が経営して
いたかもしれない


夕方の
ショッピングセンター前では


インド人の 御婦人方が
いつも 長い井戸端会議を
していて


きれいな
サリー姿だった


終戦後  初期の頃

その辺にいる
普通のオバさんたちも
若い時分は


メイドをしたり
にわか店員となって 


カタコトの英語を
つかったらしい


思い出話を聞かせて貰うと
たまに 英語が出てきて
笑ったものである



さて


世界の警察官を自認する?
米国・米軍の動きは

世界の動き


極東最大の米空軍基地から


戦闘機・給油機の飛ぶ音が
うるさくなると


アメリカが
世界のどこかで
何かをしている証拠の
ようなもの


ニュースを見て
やっぱり、と思うのだった


世界の動きに
一番近い街は


米軍基地のある街に
違いない


でも もう いい加減に
してくれないかな


大いなる救いは


このシマには
巨大な米国でも
侵すことのできなかった
文化が

しっかりと根付いていて


それが
長い  米国・異民族統治にも
耐えうるものだったこと


米国の植民地政策で
温存されたことも
あるだろうが...


とにかく
歌・サンシンの音(ね) が
枯れることなく


今も 聞こえていて


シマ伝統のことばや
行事が
息づいていることだ




蛇足...です


軍雇用時代の
オジさん、オバさんたちの
笑いばなし
 

ブロークン・イングリッシュで


ナンバーワン  チキン
クックルックー
(クックドゥードゥルドゥー)
ユーカム  ミーカム  ライカム

というのがあったそう


一番鶏がないたら
ライカムで
会いましょう、だって! 笑


ライカムとは
かつて琉球米軍司令部が
あった場所の略称


この地では、自分が行くことも
来る、と言ったりします


基地に勤めていた
オジさん、オバさんの
話す英語は

肌で感じた ことば


アイスワーラーと
いえば
ちゃんとお水が出てくるし


お腹に物資を隠している
ところを憲兵に
呼びとめられて

あわてて、お腹を押さえ

シマのことばで


ワター ヤムン
お腹(ワタ・ハラワタ)が
病む(痛い、ヤムン)
といったら

時刻をたずねる英語に
間違えられたとか  笑


米軍基地のための土地収奪に
対する激しい抵抗闘争の
中にあっても


庶民は
したたかに 生きてきたことを
いまも  生きていることを


誇りと言わず
何と言おう

(もちろん、シマにも地域差、
温度差はあります)




皆さま
今日もお訪ね
有難うございます


たまには 
こんなことも
つらつらと書いて
みたくなりました  

庭のハイビスカスは
今日も 元気です