74年前

この地では
地上戦が行われ



日・米の軍人や

たくさんの民間人などの
いのちが失われた


砲撃をのがれて
逃げまどい


背中に背負った幼な子が
息絶えるのも
気づかず...


捕虜収容所で
再会を喜んだ家族も
いれば


どこで斃れたか
不明のままの家族もいた


疎開船が撃沈され
たくさんの子どもたちが
亡くなる悲劇もあった


痛ましいことは
数しれず...


そんな悲しみを
背負っての人々の


戦後の出発だった



その当時

   
家族などをなくし
暗く うちしずんでいる家々を
まわり


せっかく生き残ったのだから

いのちのお祝いを
しましょうと


歌などで


人々を慰めた方が
いた


ブーテンこと
小那覇舞天さん


明るく
人々を勇気づけたと
言われている


本業は歯科医で
演劇人でもあった


🌟


日本軍の
組織的な戦闘が
終結したのが6月下旬


戦争の終わりを知らず
あるいは、信じず
山に身をひそめたまま...


混沌とした月日が
あっただろう


あたらしく
支配者となった米国は


焦土の地で
いちはやく
文化的な催しを行なった


その年のクリスマスの日に
演芸大会が
開かれている


企画したとされるのは
米国海軍軍政府教育担当官 
ハンナ少佐


その土地に伝わる
芸能文化のチカラで


疲弊した民心に
活力を与えるためだった


戦争から
生き残った芸能人
芝居役者や舞踊家が

集められた


演目には


生き別れた親子が
再会する
組踊「花売りの縁」が
選ばれ


劇中の再会の場面に

人々は
思い重ねて

涙したと語りつがれている


🌟


わたしが
いま、趣味で稽古に
はげんでいる
組踊「女物狂」には


人さらいに
幼な子をさらわれ


一時的に
気の迷った母親が


子どもと再会する場面が
ある


母親の喜びの場面で
歌われる歌詞は


ああ、生きていたのか!
わたしの愛し子よ


という意味の 短い歌
歓喜の絶叫


9月に本番を控え

歌の稽古をしながら...


冒頭のようなことを
思い浮かべた...


いや、伏線には
戦争のことに触れた
過去記事を
訪ねて下さった方がおられ
再読したことが
あったからかもしれない  想


精神には
どこでどんな作用が
おこるのか予測不能...






さて、下の写真の彼は

その「女物狂」の
子供を盗む、盗人役


演ずるときは
表情が厳しくなるが


このショットは可愛い


若手舞踊家です





下の写真は、わたし

ブッ

いつぞやの舞台衣装です

琉球王朝時代は男性にしか
古典芸能が
許されていなかったため


地謡の女性も 
男装します
 



下の写真は
先日、アナウンスを担当した
こども達だけの
組踊「執心鐘入」の
本番風景


手前が
アナウンス用テーブル 笑

会場によって様々ですが
だいたい
こんな感じです

奥の方に地謡が
見えますね

歌・三線、箏、笛、胡弓
太鼓



早替りの着付けは
数人がかり
舞台袖で行います

本格的な着付・結髪



追記🌟


花の写真は
庭の 鐘楼臭木 です
長い期間、咲いてくれます
甘い香りの花です


あれやこれやと
慌ただしい日々

お訪ね、遅くなっています

皆さま、どうぞ
お元気で!

いのちが大切に
守られることを願い...