私は自分の音楽教室での指導活動以外にも、わが町・鞍手町の地域福祉関連の委員活動、そして発起人として子育て支援・障がい児支援活動も行っています
支援活動(チーム)のメンバーは私を含めて3人
身の回りの人々の声や現状、そして支援情報についてメンバー間で話し合い、その中から支援イベント案を出して絞って練っていきます
ゲストの方をお招きする場合はチームとイベントの主旨説明を含むオファーを出させて頂き、許可を頂けましたらゲストの方を交えてのミーティングも重ねていきます
開催日が正式決定となりますと、そこからスピードを上げて準備やブラッシュアップのためのミーティングを更に重ねていきます
イベント告知(周知)活動は開催日から逆算をして始めるのですが…そこで必ずといって良いほど直面するのは、“それは私にとって無関係の世界です”というとても柔らかい反応をされる方たち
その中でも私が胸が痛くなるのは
『必要な人に届くといいですね』
という言葉です
確かに、確かにそうなのですが…
そう思ってくださる思いはもちろん有難いとは思うのですが…
必要な人にしか届かなくてもいいのかな?
必要でない人はそもそもいるかな?
「そしてアナタは?」と私は思ってしまいます
もしかすると「そんな風に思うのは言葉の揚げ足取りじゃない?それともアナタは承認欲求が強いの?」と思われる方がいるかもしれません
うーん、それとは違うかなぁ(^^;;
イベントへ参加できない方がエクスキューズというか、やんわりとお断りのワンクッションとしてその言葉を使っていらっしゃることも分かります
皆さんそれぞれにご事情やご都合があって参加できないことはあって当然ですが(それは別として)そうではない温度って…あるんです
きっと分かる人には分かるこの感覚
この言葉に感じる“無関心というワケではないけど私には無関係”という温度
一見、とても柔らかい言葉だとは思うのですが…
実は私の周りにも“無関心と無知ゆえの発言をする人”はたくさんいますし、それが私の周りの現実です
これは実際に私が言われた言葉で「(ミズマが)子どもさんを見た時に直ぐに『あ、この子、障がいがある‼︎』って分かるものなの?」や「うちの子見ててどう思う?障がいがあるって分かる?」など
……(~_~;)
知らないが故の言葉の軽さ(その時の雰囲気も含め)がそこにあったり、“知りたい!”という本心からの質問ではないことがよく分かります
そして特別支援の必要なお子さんとのレッスンの様子を話していると
「へー、(ミズマの)やってるコトってすごいね。お医者さんみたーい!」
「そんなに一生懸命に活動しているなら議員さんになれば?笑」
……(~_~;)
お医者さんも議員さんも尊いお仕事です
肩書き的な面でも「立派なお仕事」という認識を皆さんお持ちかと思います(私は逆に変な線引きをしたりはしないけれど)
でもね
でもね…
私が言わんとすること、お分かりでしょうか?
周りの人たちは一切悪気なく、寧ろ私のことを良かれと思ってそう言ってくれているのですが、私・私たちの活動の評価?に対してネームバリューのある職種で表すという感覚が、私は少し理解に苦しむのです
相手に対して投げた当たり障りのない言葉が(寧ろ相手の気持ちが上がるかも!という無意識下の言葉)、実はその人の芯を表しているという二重構造
これらの言葉は『必要な人に…』の言葉の投げかけと同じなのでは⁉︎と私は(個人的に)考えてしまうのです
世の中には支援の必要なお子さんがたくさんいて、子育てに悩む親御さん方もたくさんいる…この現実に対して無意識の無関心だからこそ、表層的な言葉だったり言葉の軽さに繋がるのだろうなぁ、と
ではなぜそのような言葉が生まれるのか?
ちょっとキツイ表現になりますが…
他人事だからなんです
私はそういった表層的な言葉に出会うと(私はそういうことを感知しやすい特性があるとはいえ)とても悲しくなるし、誰かが仰っていた『自分の半径5メートルを変える難しさ』に否が応でも直面し、そしてとても凹みます
世界中には色んな人がいてその中には差別をする人・差別主義者も一定数存在します
日本にもいます
そして
「私は差別なんてしないわ!」という方の中に、無意識の中で無関心の壁を作っている方が圧倒的に多くいらっしゃいます
「発達障がいの子って天才って言われますよね!」
「ダウン症の子って天使って言われますよね?」
私はこれまでにこの言葉を何度も何度も何度も聞いてきました
そういうテンプレのような言葉で“私、障がい者差別はしていませんよ!寧ろ理解していますよ!”と置きにいく人たちがたくさんいます
それは某チャリティー番組のチャリティーマ◯ソ◯を見て「感動をありがとう!」という人と同じ構造なんです
私的にこれがホントに辛い…
追記:私があの番組に違和感を感じて一切見なくなったきっかけは、チャリティーマ◯ソ◯なのです
チャリティーマ◯ソ◯の主旨自体は良いと思います。走者が一般人であっても芸能人であっても何も問題ないとも思います
仮に24時間をかけて行う過酷なスポーツ競技であっても、それはそれでも良いとも思います
私があの番組を一切見なくなった理由は、それとは全く異なる企画の本質を個人的に感じたから
健常者ランナーに24時間走り続けるという『過酷さ』と『苦しさ』『辛さ』からの『頑張ったね!』『乗り越えたね!』を企画として番組サイドが与えること…それが意味することの深刻さと、それが表面的に(TV的に)視聴者にどう映るのかを想定しながら【チャリティー番組】として成立させようとする『不公正さ』や『捻れ』がたまらなく不快になったからなんです
話は戻って…
一見誰も傷つけていないような言葉ですが、言葉からその人の心理がはっきりと見えてしまう…だから傷つく人がたくさんいらっしゃいます(なんて言えばいいのかな…やはりその軽薄さに傷つく感じなんです)
私はそういった苦しみを抱える親御さん方のお気持ちが痛いほど分かります
だって毎日毎日奮闘されているのですから
支援の必要なお子さんの親御さんだって定型児さんの親御さんと同じ人間で同じ親御さん
普通に怒るし、苛立つし、泣くし、落ち込むんです
そして嬉しいことや楽しいことがあれば喜ぶし思いっきり笑います
“天才”や“天使”と表現されなくても支援が必要であろうがなかろうが、子どもさんは皆んな皆んな可愛くって、愛おしくて、時にはイラっとさせちゃうイタズラ天使なんです(^_^;)
子ども同士も同じ人間
親同士も同じ人間
だからこそ
無意識・無関心・無知って
とても怖いことなのです
無意識の壁•無関心の壁は“なんだか得体の知れない柔らかさ”を孕んでいます
一見分かりにくい素材だからスルーされてしまうけれど、『素材に潜む棘』に気づく人にとっては致命傷を伴うようなとても鋭い棘だったり、長時間かけて鈍痛を起こすような棘を持っています
だからこそ当事者の方やその保護者の方…つまり特定の方だけに支援を届けるのではなく、誰もが情報を得られ誰もが学べる場として、私たちのチームの活動が存在できればと思います
チームの初期のイベントでは『子育てって支援!』というキャッチコピーをつけて活動していました
子どもが育っていくための
子どもへの支援…それが子育て
子どもさんに向けた支援も発信するし、『特別支援』という『』が付いても付かなくても皆んな誰にとっても支援は必要なのですから、親御さんや周りの大人の方、そして大人同士に対しても支援情報を発信して皆んなで学び、理解の輪を紡いでいきたい…そう思っています
私は音楽講師です
音楽講師は音楽だけ、指導だけ、をやっていれば良いんじゃない?
レッスンの中で活かせる支援を勉強しておけば良いんじゃない?
そう思う方もいらっしゃるでしょうし確かにそうかもしれない
だけど私は子どもさんたちに安心安全な未来を作っていきたいと思う、講師の前に一社会人であり、大人であり、人間なんです
それには理解ある社会作り
理解ある町作り
理解ある大人たちを作っていかなくちゃいけない
支援活動ってマイノリティの方だけのモノではなく、実はマジョリティのためにも存在します
『ワタシに支援知識なんて必要ない』と無意識に気づいていないマジョリティのアナタこそ、学びという支援が必要な人なのだということにぜひ気づいてください
自分の半径5メートルを変える支援活動…
変わるのはいつになるだろう…
まだまだ頑張らなくちゃ
まだまだ、まだまだ…
2018年 ラジオ出演もさせて頂きました♪
メインゲスト・ソプラノ歌手の牛島和美さんの回です
私のサポシーの活動話も聞いて頂きたいのですが、
メインゲストの牛島さんのお話は必聴です
牛島さんは以前のお住まいから変わられ、そしてコロナ禍ということもあってお年賀状のやりとりのみになっていますが…このラジオ出演から牛島さんと直ぐに意気投合して(笑)ゴハン&ロングトーク+スイーツ&ロングトーク(爆笑付き)をさせて頂きました(^^)
本当にお心が広くてお優しくて、明るくてめっちゃくちゃ元気を頂ける方
またお会いしたいなぁ…