三姉妹の末っ子あるあるなのかもしれないけど、私は姉たちに比べて、圧倒的に写真の枚数が少ない。

実家には、姉それぞれに分厚いアルバムが何冊もある。昔ながらの、フィルムをペリペリとはがすタイプのやつ。
そこには一枚一枚、母の手書きのコメントが添えられていて、「この日こんなことがあったんだな」っていう記録がちゃんと残っている。

それを見て、いいなぁと思っていた。

もちろん、母が大変だったのも分かる。
私が子育てをしていた頃もまだスマホもなくて、
写真は現像しないと見られないし、アルバムにまとめるのも手間がかかる。
だから、単純に「愛情が少なかった」とは思っていない。

でも、私の中にはどうしても、
「写真の枚数=愛情の量」
みたいな方程式がある。

レンズを向けるって、ひとつの愛情表現だと思うから。

写真って、忘れたくない今を切り取るために撮るものじゃない?
美味しいものを食べたとき。
楽しいことをしているとき。
素敵な場所に行ったとき。

「この瞬間を残したい」と思う気持ちの延長に、シャッターがある気がする。

だから私は、写真に写ることに憧れがあったのかもしれない。

この前の旅行で、その気持ちに気づいた。

「ゆうこさん、そこに立ってください!」

一緒に行ったきえちゃんが、たくさん写真を撮ってくれた。
景色のいい場所で、楽しい時間の中で。
知らないうちにもたくさん撮ってくれた。

旅行から帰って、お互いの写真を共有したら、びっくりするくらいの枚数になっていた。

たくさんの写真を見返していたら、じわーっと楽しかった気持ちがよみがえる✨

自分が写っている写真もたくさんあって、
しかもどれも楽しそうで、なんならちょっと可愛く写っている(笑)

それを見ていたら、なんだか不思議と癒されてきて、「これってセラピーみたいだな」と思った。

誰かに写真を撮ってもらって、そこに写っている幸せそうな自分を見る。
それだけで、満たされる感覚がある。

私の場合、子どもの頃の体験も関係している気がする。

写真が少なかったこと。
ちょっと羨ましかった気持ち。
残してもらえなかった寂しさとまではいかないけど、
どこかにあった小さな引っかかり。

それがあるからこそ、今こうして写真を撮ってもらえることが、余計に嬉しいのかもしれないな。

写真って、ただの記録じゃなくて、
「あなたのこの瞬間、ちゃんと見てるよ」
っていうメッセージみたいじゃない?

そう思うと、やっぱり写真は、ひとつの愛情表現なんだと思う。

たくさんの写真の中から、きえちゃんが厳選して、リールまで作ってくれた。
しかも一日ずつ、四日分。

「できましたー!」って送られてくるたびに、毎回めちゃくちゃ嬉しくて。

3日目のリールが届いたときなんて、「あ、次で最後か」って思ったら寂しくなった(笑)

完成したリール、何回も見返してる。
……ってなかなかのナルシストっぽいけど、まあいいや。

「こんなふうに過ごしてたんだね」って、
誰かが切り取ってくれた自分を見てる時間なんだと思う。

だから嬉しいし、何度も満たされてる。

っていうか、沖縄が楽し過ぎた😆