*【東大教室】ブログ上公開演習➋-3(解説)の続きです。
*問題は、【東大教室】ブログ上公開演習➋-1(問題)で確認してください。
演習➋ 古代(総合) 受領とその地方支配
解説③
■負名体制の成立とその後
地方支配転換後の徴税のあり方を律令体制と比較すると、賦課対象が人から土地へ、すなわち、公民男子を対象とする人頭税から有力農民層(田堵層)が耕作と納税を請け負う土地課税方式へと変化した、とまとめられる(→設問B)。
受領が公領を名(徴税・土地経営の単位となる田地)に編成し、その田地の耕作を請け負わせた田堵を負名(ふみょう)として把握するかたちが採用されたため、これを負名体制と呼んでいる。
負名体制のもとで、受領は一国内の支配にあたり、従来の律令制的な支配原理に拘束されることなく、負名の請作面積に応じて、官物(かんもつ)(米などが中心)、臨時雑役(りんじぞうやく)(雑多な負担の総称)を賦課できるようになった。
こうしたなかで、私的な富の蓄財に邁進する受領も登場してくることになる(→設問B)。
当時、受領は数十人規模の子弟・郎等を率いて任国に赴くのが一般的だった。
ここで説明したような特徴をもつ任国支配に意欲的にとりくんだ受領が、国衙(こくが)(国の役所)で実務にあたる目代や在庁官人(国衙行政を担当した現地役人の総称)に、文書処理などの面で相当高い事務能力を求めたことはいうまでもないだろう(→設問C)。
【受領と目代の関係】
➊ 受領と目代
目代について、教科書は、「赴任せずに、国司としての収入のみを受け取ること(遙任)もさかんになった。……一種の利権とみなされるようになった受領には、成功や重任で任じられることが多くなった。やがて11世紀後半になると、受領も交替の時以外は任国におもむかなくなり、かわりに目代を留守所に派遣し、その国の有力者が世襲的に任じられる在庁官人たちを指揮して政治をおこなわせるようになった」(『詳説日本史B』山川出版社、p.79~p.80)といった表現で、遙任国司と結びつけた解説をしている。
この説明だと、受領と目代は両立しないかのように思えるが、特に本問が対象とした10世紀後半ごろの段階では、受領の腹心として任国に赴任し国務を統括するタイプの目代も多かった。
➋ 目代の選定基準
目代は国衙行政のエキスパートである必要があった。
実際に、政務の参考にするための模範文例集として編纂された『朝野群載(ちょうやぐんさい)』という書物にも、目代は「貴賤を論ぜず、唯(た)だ堪能の人」を採用すべきで、そうでない者を目代にして「事畢(おわ)るの後、首を掻(か)きても益なし」、と記されている。
なお、従来こうした地方支配の転換については、中央政府が地方の統治をあきらめたかのような見方もなされてきた。
しかし現在では、国家による地方支配が成熟して新たな段階にはいり、受領の主導によって地方支配が強化された、と評価されることが多い。
さて、このような国政の転換を背景とした受領の徴税攻勢に対抗するため、田地を開発して成長した地域の有力者(大名田堵層)は、中央の権力者(権門勢家)に土地からの収益権(職(しき))を寄進して保護を求める動きを次第に強めていった。
こうして成立した荘園のことを寄進地系荘園と呼び、そこでは、本家―領家―荘官(預所(あずかりどころ)・下司(げし)など)という重層的な支配体系が形成されていく。
結果として11世紀には、国衙の支配下にある公領(国衙領)と、国家的な行政権の排除をめざす荘園とが併存する状態(荘園公領体制)が生まれたのである。