気の科学35 植物の意識と知恵 | 野人エッセイす

野人エッセイす

森羅万象から見つめた食の本質とは

植物が種子を遠くへ運ぶ方法としていくつかある。木の実、果実類は鳥や動物に食べさせて運んでもらう。草の仲間も果肉のあるものは同じだ。その為に「甘味」を作る。果肉を持たないものは、軽いものは風に乗せ、タンポポのように綿毛の飛び道具があるものもある。

鳥に食べさせて未消化の種を遠くに運んでもらうものもあれば、オナモミやゴボウのように動物の毛にくっついて運んでもらう賢い植物もある。中には接着剤のような粘液でくっつこうとするものもある。どこでどのようにしてこんな知恵を持ち、進化したのか、偶然ではなく、明らかに植物が動物を観察する「感性」と「知恵」と自らを変える「意思」を持っていることの証明だ。細胞は自分の仕事で精一杯だから、ゴボウで言うなら、人と同じようにゴボウの全細胞を指揮する人格、いや「ゴボウ格」があるのだ。おそらく何百万年もかかってくっつき虫は生まれたのだろう。いや数千万年、数億年かも知れない。

多くの植物を観察してわかることは、どのような形、生態を持とうがすべてに「理由」があると言う事だ。それは生きる為の知恵であり、繁殖する為の知恵だ。短いものは小さな種から発芽して数ヶ月でその生を終える。そのような植物や微生物や虫や鳥が協力して土壌を作っている。その膨大な仕組みはとても人知の及ぶところではない。野人はそれらに謙虚な敬意を表している。学ぶべき事が多すぎるのだ。生涯をかけても学びきれないだろう。生命の仕組みと慈悲を知る事が「悟り」と言うものではないだろうかと感じている。その為に人は肉体と頭脳を持って生まれてきた。机上の理論と瞑想で理解出来るものではない。人間の脳は使われていない部分が多い。何故使われていないのか、最近その意味を考えるようになった。植物がそうであるように人間も必要だからそれだけのものが備わり、使いこなしてきたから進化してそうなったのだ。世の中に不要なものは何一つないのは自然界を見ていればわかる。使わなければ何万年もかかって退化、消滅するだろう。そう考えると人の脳は退化していることになる。しかし人はそう思ってはいない。今が文明の一番の進化の状態と誰もが思っているはずだ。勉強と称して先人が積み重ねた知識を詰込む記憶量は増えている。膨大な知識を使いこなす理論も多少は覚える。しかし脳と同じように使いこなせていないのだろう。文明から離れて一人だけ原野や無人島に放り出されて生きて行ける人は少ない。自然の中で生きて行けるだけの知恵がないからだと思う。自然界を表面的な知識だけで理解しているからだ。だから常に人間は破壊を続ける。点で捉えるから破壊と言う意識はない。破壊は結果としてついてくる。そしてそれに気付き修正する。人類の歴史はその繰り返しだ。ミクロを研究して出た答えは人間にとっては正しくても自然界の仕組みからかけ離れている事が多い。ミクロに没頭する学者はそこに気付くべきだろう。時には足元や海や野山を見てマクロの視点を養う事も必要だ。友人の学者達を見ていてつくづくそう思う。彼らが文明を牽引しているのだ。研究の為の研究は役に立たない事のほうが多い。自然界の生き物は、脳は人の足元にも及ばないが何一つ無駄なものはなく、遠回りもしない。彼らは「共生」を前提に進化してきたが人はそうではない。農業をはじめとする全ての産業がそうだろう。人間だけが持つ「欲とエゴ」がそうさせている。人の脳を持ってすれば地球上のすべての生き物と上手く共存する事が出来るはずなのだ。