沖縄の書店イベントの帰り、那覇空港で荷物チェックを終えてトイレに入ったら、棚の上に、
ポッチャマ
のぬいぐるみが置いてあったんです。
この文章を読んでいる人の中には僕より詳しい人がたくさんいると思うのですが、ポッチャマというのは「ポケモン」に出てくるキャラクターですね。
ちなみに、僕はポケモンについて全然詳しくありません。ポケモン関連のゲームも、ほぼやったことがありません。
だから、昔の僕がこのぬいぐるみを見ても、「誰かが忘れていったんだろうな」と思って終わりだったかもしれません。
ただ、那覇空港のトイレでこのぬいぐるみを見た僕は、そのまま放っておくことができませんでした。
というのも、
ポッチャマは、子どもにとって、めちゃくちゃ重要なキャラクターだからです。
その理由は……正直、わかりません。
たぶん、ペンギンか何か、なんですよね?
ただ、子どもが塗り絵を持ち帰ってきたり、公園で会った他の子どもたちが持っていたり、
とにかく遭遇率が高い。
体感ではピカチュウと同レベル。いや、それ以上かもしれない。
そのポッチャマと、僕は、トイレで目が合ってしまったのです。
もちろん、棚から動かしてしまえば、持ち主が戻ってきたときに見つけられなくなる可能性があります。
でも、このまま置いておいたら、誰かが持っていってしまうかもしれない。
そして、何より、これは子育てをしている人なら全員うなずいてくれると思うのですが、
子どもは、とにかく、人形をなくします。
ちなみに我が家では、人形を外に持っていくことを禁止しています(それでも、こっそり鞄に隠し持っていくことがあるのですが……)
つまり、持ち主の子が「トイレに置き忘れた」ことに気づいてすらいない可能性がある。
これはもう、やるしかない。
そう心に決めてポッチャマを掴み、トイレを出て、近くにいた子ども連れの家族に「これ、落としてませんか?」と聞いて回り始めたのですが、3組ほどに聞いたところで足が止まりました。
家族が、多すぎるのです。
考えてみれば当たり前でした。ここは那覇空港で、しかも夏休み真っただ中です。まず、人が多く、そして家族も多い。
全組に聞いて回るのは不可能だと判断し、結局、近くのスタッフの方に相談すると、「26番ゲートに持って行ってください」と言われました。
おそらくそこに落とし物を集める場所があるのでしょう。トイレの棚に置いておくよりは見つけてもらえる可能性が高そうだと思い、(しょうがないか……)と26番ゲートに向かうことにしたのですが、このとき僕は、最後の望みを託して、
右手に持ったポッチャマを、高々と掲げて歩きました。
自由の女神が掲げているのは松明ですが、僕が那覇空港で掲げたのはポッチャマでした。
そして26番ゲートを目指して歩いていると、
「あ゛ーっ!!!」
という大声が響き渡りました。
駆け寄ってきたのは、男の子と、その両親でした。男の子は5歳から7歳くらいの、僕が想像していた持ち主と同じ年齢の子でした。
こうして僕は、運よくポッチャマを男の子の手元に戻すことができたのですが――
実は、前々から、ずっと言いたいと思っていたことがあるのです。
この件については、色々な環境や状況に置かれた人がいて、軽々しく言えることではありません。
でも、どうしても、言いたい。
それは、
「子育ては、素晴らしいよ」
ということです。
いや、もちろん、苦しいこともいっぱいあります。頭がおかしくなりそうなくらい、つらいこともある。
加えて、これは僕個人の意見かもしれません。実際に子どもと過ごし始めて分かったのは「子育ての喜び」というものは、人によって多岐に分かれているということです。
だから、ここからは「僕にとっての」話をさせてください。
場面は、再び、那覇空港のトイレに戻ります。
正直に言うと、あの棚に置いてあったのがポッチャマ以外のキャラクター、名前も知らないキャラクターだったとしても、僕はトイレに放置しなかったと思います。可愛いぬいぐるみは、そのキャラクターが何であれ、持ち主にとっては宝物でしょう。
でも、ポッチャマには、僕にとって、特別な意味があったんです。
僕は、ポッチャマを知りません。
必殺技も知らない。どう進化するのかも知らない。属性のようなものもわからない。繰り返しますが、ペンギンであるのかどうかすら100%の確信が持てない。
それなのに、僕は、ポッチャマを「知って」いるのです。
ある一点においてだけ、一般的に知られているよりも、はるかに深く、です。
それは、「ポッチャマというキャラクターは、何らかの理由で、子どもからとてつもなく愛されている」ということです。
こんな「知り方」をしているキャラクターは、僕の中でポッチャマだけです。
ピカチュウは知っています。
テレビが、CMが、町の看板が、教えてくれた。
でも、ポッチャマを僕に教えてくれたのは、子どもだけなんです。
僕の世界にポッチャマが入ってくる経路は、子どもとの生活でしかなかった。
だから、那覇空港のトイレの棚の上のポッチャマは、誰かの、単なる落とし物ではなかった。それは、落とし物であると同時に、「子育てが僕の世界に連れてきたもの」でした。
だからこそ、こだわってしまった。
どうしても、放っておけなかったのです。
――生まれて初めて、子どもと一緒にジョナサンに行った日のことを、今でもたまに思い出します。
このブログでも何度も書いてきたように、僕はファミリーレストランという場所をこよなく愛しています。
ジョナサンで過ごした総時間を計算したら、おそらく数千時間になるでしょう。
ジョナサンのドリンクバーに何が置いてあって、どのタイミングで季節のフルーツのスイーツが投入されて……そういったことを「すべて」知っています。
でも、子どもと一緒に行ったジョナサンは、ジョナサンではありませんでした。
僕はこれまで子ども用の椅子がどこに置いてあるのか、気にしたことすらなかった。
子どもがお店からもらえるコインでやるガチャガチャと、お金を払ってやるガチャガチャが別物だということも、知らなかった。
そして、隣の席の会社員風の男性が、子どもが大きな声を出すたびにこちらに視線を送ってきて、それが非常に居心地が悪いということも、知らなかった。
この場所で、数千時間を過ごしたんです。
知らないことなんて何もないはずだったジョナサンに、
それでも、違う世界が広がっていた。
子育てとは何か。
子育ての魅力とは何か。
それは、この世界について教えてくれる――「世界の解像度を上げてくれる」ということです。
「ポッチャマ」というキャラクターについて、僕に教えてくれたように。
「ジョナサン」という場所について、僕に教えてくれたように。
子どもという存在は、
世界とは何か?
人間とは何か?
人類が地球に存在してから問い続けてきた最大の問いの答えに、近づかせてくれる。
それが、もう、圧倒的に、素晴らしいのです。
子育てをする前、僕はこう聞いていました。
「子どもの寝顔を見れば、すべての疲れが吹き飛ぶよ」
僕の疲れは、吹き飛びませんでした。
それは、子どもの寝顔が可愛くないとか、そういうことではありません。その喜びが、僕という人間の価値観のど真ん中ではなかった、ということだと思います。
一方で。
那覇空港でポッチャマを高く掲げて歩いているときに聞いた、
「あ゛ーっ!!!」
は、僕の疲れを、苦しみを、いとも簡単に吹き飛ばしました。
もちろん、男の子の大事なものを返すことができたことは、素晴らしいことでした。
でも、それだけじゃない。
僕はあのとき、世界の一部であるポッチャマが、子どもたちにとってどれほど大事なものかを、深く知っている自分として、那覇空港を歩いていました。
子育てをして、子どもと長い時間を過ごして、前は知らなかったことを、今は知っている。
その僕だったからこそ、あのとき、ポッチャマを高く掲げることができたんです。
ポッチャマを受け取って「ありがとう!」と言った男の子や両親と、「良かったです」とか「トイレにありましたよ」と話しながら、
心の中で、何の偽りもなくこう思っていました。
「『ありがとう』は、こっちの台詞なんだよ」