「人の習い残し」を習う
今日も良寛さんは托鉢(たくはつ)に出ました。
里の近くまで行くと、野道の角の草の上に腰をおろした二人の農民が、世間話に興じています。
さっそく良寛さんも、その仲間に加わりました。
すると、一人の男が急に思い出したように、良寛に尋ねました。
「良寛さま、あなたさまは、永い間他国で、偉いお坊さまについて修行なさったそうじゃが、いったい何を習ってきなさったのですかい!」
皮肉な質問でした。
それというのも、二十二歳の時から備中(岡山県)玉島の円通寺に在って、当代日本随一の名僧国仙禅師のもとで参禅し、十六年の永きにわたって修行を積んだはずの良寛さんが、こんな破れ衣をまとい、乞食坊主の生活を送っているのです。
そのころ越後から玉島への旅は、今で言えば欧米への留学にも等しく、名僧国仙への師事は、ケンブリッジ、オックスフォードの大学での勉学にも似ています。
しかも、三十三歳ですでに禅の奥義に到達したという故をもって、国仙禅師から印可(いんか)〔修行者が悟ったことの証明〕を授かっている良寛さんです。
こんな良寛さんが、寺も持ち得ないで、子どもと戯れ、民衆との談笑に明け暮れるなんて、この男たちにとって、不思議でならなかったのと同時に、その甲斐性なさを嘲笑せずにはおれなかったのです。
二人の男は、改めて良寛さんの顔と破れ衣をのぞき込みました。
正面攻撃を受けた良寛さんは困りました。
それでも、漸く口を開きました。
「わしはのう、みんなの習い残したものを習ってきただけじゃよ」
この言葉の意味は実に深遠です。
何の事だかさっぱり分からない二人は、口をそろえて問い返しました。
「良寛さま、ひとが習い残したものって、そりゃなんですかい、長い間他国で勉強したのは、出世をするためじゃなかったのですかい!」
良寛さんは、いよいよ返答に窮しました。
「ああ参った、わしの負けじゃ、もうそんな話はやめておくれや、たのむたのむ」
良寛さんは逃げるようにして立ち去りました。
みんなの習い残したものというのは、いったい何なのでしょうか。
少年 父を捨てて 他国に奔り(はしり)
辛苦(しんく) 虎を描きて、猫にもならず
人あって 若し(もし)箇中(こちゅう)の意を問わば
これは これ 従来の栄蔵性(えいぞうせい)
北陸随一の名門で、名字帯刀(みょうじたいとう)を許された大名主山本家の御曹司に生まれた栄蔵(良寛の本名)が、名主見習という栄職を捨てて出家したのは何故か、その真因は詳らか(つまびらか)ではありません。
しかし、なんとかして名僧知識と言われる身になって、世を救おうと願った青年良寛の心情は、この詩によってうかがうことができます。
先の男たちの言った通り、勉学を積むのは、自分の名声を挙げるためだと考えるのが古今共通の人間の常識とも言えましょう。
ところが、坐禅も作務(さむ)も人に倍し、宗祖道元の正法眼蔵(しょうぽうげんぞう)をはじめ万巻の書に読み耽って夜の明けるのも知らなかった円通寺での生活は、良寛さんをして、立身出世の意義と、世上の名声に対する価値観を変革させていきました。
政治や金や本山の権力に屈従して位階を求め、豪華な袈裟(けさ)を身にまとうのが、出世なのでしょうか。
自らの行為とは裏腹の教養を得々と説いて、賽銭や寄付金を檀徒から巻きあげるのが、僧侶としての手腕家なのでしょうか。
やたらに管長の座を誇示して、駕籠の中から民衆を蔑視するのが名僧なのでしょうか。
良寛さんの疑問はますます深まっていくばかりでした。
そして、このような出家本来の使命を逸脱し、その本分を忘れて恥じることのない僧侶たちの醜態は、良寛さんにとって見るに堪えないものになって行ったのです。
釈尊は民衆とともに在りました。
そして、托鉢行乞(たくはつぎょうこつ)の法を実践して、その八十年の不滅の生涯を全うしました。
このような出家本来の使命は、どこまでも大衆とともに在って喜怒哀楽を分かち合い、ひたすら人々の安心立命(あんじんりゅうめい)を念ずるところにあるのです。
良寛さんは、この釈尊の教えた原始仏教の原点に立脚して、たくましく真実と愛と正義を実践しようとしたのでした。
元来出世の意味は、自利の修行を極めた僧が、衆生済度(しゅじょうさいど)の願いをこめて現実の大衆社会に打って出て、利他の行に徹することです。
良寛さんが他人の習い残したものを習ったというのは、この真の出世だったようです。
良寛さんが亡くなってから百四十年を経た今日〔一九七四年〕、かの円通寺は、名僧国仙禅師がいたために有名だというのではなく、一介の雲水良寛、しかも、生涯を托鉢の乞食僧として果てた良寛さんが修行した寺であるというので有名なのです。
歴史もまた、皮肉だと言わねばなりません。
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