前の記事の続きです。先に夫の例を出して「自他の区別があいまいで、精神的に他人と境界線が明確でない」ケースについて書きました。


「自分と他人の境界線があいまい」ということは、自分の感情や考え、アイデア、その時思ったことを、側にいる他人は知っている・理解していると無意識に思い込んで言動している状態になりがちです。これはすでに乳幼児期の頃から見られます。つまり、発達障害の人間は、どうも生まれながらにして「他人」を区別しずらい、能力的な弱さがあるようです。それを子供達の例から見ていきます。少し長くなります。


発達障害の子供は、乳幼児期に次のような様子を見せることが多いように思います。



・両親や兄弟姉妹をあまり見ない赤ちゃん。精神的に自分の世界にいる(自閉している)


・他人から指摘されるとカンシャクを起こしたり泣き叫ぶ


・親や他人の「手」を道具のように操る(クレーン現象)


・「こう動かして」「こう言って」と他人の言動を指定しようとする


・主語をすっとばして、いきなり欲求や結末そのものを話す。説明が足りない。


・イライラをたやすく他人にぶつける。噛んだり暴力をふるう(他害)



こういったことは、「自分と他人」という世界観がないために起こってきます。ですので、乳幼児期に自他の区別をきちんとつける習慣づけをしていくと自然とこうした言動は無くなって行きます。逆に、自他の区別は自分ひとりではいつまでも区別がつけられないほど難しい精神的なひもときですので、大人になるまでずっとこの「自他を混同した状態」で成長してしまった場合は、人間関係でトラブルになりやすかったり、他人に依存している、自分を放棄してしまっている不安定な状態であることに気づかずに悩み、鬱にまでなってしまうことがあります。ですので、発達障害の人間にとってはとても大きな課題だと言えます。


上記のひとつずつ理解していくと、言わんとしていることがなんとなくわかっていただけるかもしれません。


生まれてすぐに顕著になる「親や他人を見ない、何か自分のことに夢中だったり、人より物に興味がある」傾向の赤ちゃんの状態は、これが発達障害の生来の純粋な性質だと思います。定型一般の友人の赤ちゃんは、ほんとうに「親を意識」していますよね。赤ちゃんなのに、親を振り返ったり、0歳なのに楽しいことがあると親の顔を見て笑顔を見せる(嬉しいことを親とシェアする)姿を見ると、とても衝撃を受けます。私が知っている、家族、親族の赤ちゃんの様子とは全く異なるからです。この赤ちゃんの違いが、まず「自他の区別がついているか、ついていないか」の発見となります。


前者の自他の区別がない赤ちゃんというのはまず自閉していますので、自分中心でしか物事を捕えらえません。自分が楽しい、面白い、良い、こうしたい、これは苦手、とても嫌い、気持ちいい、気持ち悪い、そういう感情だけで頭も心もあふれています。そこに親であろうと家族であろうと、「他人」が自分の領域に入ってきて(ただ話しかけたとか、服を脱ぎ着させたとか、そんなことです)自分の気分に波風を立てる言動をしてくると、とてもイラつき腹が立ちます。「なぜだ!」という気持ちが強く、自分の気分を妨害される事を嫌います。逆に言うと、「他人は自分の気分を保つことができるのが当たり前にできる」と思い込んでいます。超能力者のように、他人は自分を知っているとなぜか思い込んでいます。ですので、自分と全く同じにシンクロした言動を他人がしないと怒り狂いますし、癇癪を起こし荒れ狂います。言い諭されると「自分の言い分、気持はわかっているくせに全部否定してくる!」と「全部理解されている前提」でいますから、拒否された感がものすごく強くなります現実には親も他人も、何にもその子の感情、考えのすべてを理解してはいないのですが、そんなことは思ってもみませんし知らないのです


私と兄弟が子供の頃した会話の中で、「自分の体という器の中にしか、自分がいないということが不思議でならない」「ふだん自分の体という器を意識していないよね。いつも他人を見て話す時は体は消えていて空気、空間でつながっているような中で会話してる」という話題が出たことがあります。このように、「体と言う器で自他の境界線がはっきりとする」ことがないので、体を超越して他人の頭の中に自分は入っているような感覚で乳幼児期は過ごしていることが多いと思います。


そうするとどうなるか、ですが、「このおもちゃをこんな風に動かそう。手が足りないからこの手(親の手)でここを持って、こっちをこうして・・・」と、自分と他人の手をごちゃまぜにして使います。定型一般の人が書いた発達障害関係の本で、「他人の手を道具として使う」というクレーン現象があると読んだことがありますが、これは道具として、というよりも「自分の意識の中では自分の手の一つとして」使っています。おわかりでしょうか。自他の区別がつかないのが行き過ぎて、近くにある手は自分のものとして好きに使ってしまいます。親や他人から嫌がられても、その感情は理解できません。ただ「使うのよ!何邪魔してるのよ!」という不便さから拒否されるとむずかることが多いと思います。


このまま、自他の区別をつけられずにさらに成長をすると、今度は言葉にも混同した状態が出てきます。乳児期から幼児期になって発語が出てくると、これが「ママ、『おいしい』って言って。『つぎはリンゴです』って言って。」と、他人が発する言葉を操る現象が出ます。言葉をクレーンしているんですよね。他人の意識を好き勝手に使います。自分のものとして使っています。無意識ですので、「ええ、ママ嫌だな」と言われることを信じられない思いで受け止めます。自分と他人が違っていては矛盾が発生しますので、違和感で気持ちわるくてパニック泣きをしたり、とてつもなく腹を立てたり、癇癪を起こしたり、とにかく嫌がります。


主語をすっとばすのも同じような理由が根源にあります。発達障害の子に説明するという概念が足りないのはなぜだと思いますか。言葉を構成する能力が低いから、と心理士さんに説明されることが多いのではないでしょうか。確かにそうです。ですがその原因、理由については説明があまりないので、能力をどう伸ばしたらいいかわからないですよね。生まれ持った性質を考えればこの言葉の偏り方も、当然なのですが。つまり、「他人は自分の頭の中がわかっている」前提なので、核心だけをズバリ言うというのが一番伝わるはずと本能的に思っています。わかっている者同士が、くどくどといらぬ説明を一からするでしょうか?逆にそれは無駄です。だから、子どもなりに一番伝わりやすいように、ズバリと「(この色)嫌だから」とか「(冷たいからまだ食べるの)まってるの」とか、聞いている大人からすると突然すぎて「は?」と思う言葉を選んでいます。



こうした、子供の言動に違和感を感じた時に大人が指導するのは「説明すること」なのですが、自他の区別をつけるという作業をなるべく乳児期からしていないと、いきなり突然言葉だけで説明したのでは「自分と他人が違う」ということが理解できにくいです。ビジュアルに区別をつけやすい工夫をしたり、自分と他人の個性や違いを常々解説して教え込んでおく必要性があります。ここが修正されないまま今度は児童期~青年期に入ることがあります。幼稚園や小学校、中学校、高校とすすんである程度他人という存在を物理的に理解したとしても、自他の区別が精神的にあいまいなままだと、思春期に自我が強くなりより論理的になっていきますので、今度は「他人との境界線を越えてしまう」ことで問題が起こったりします。強い自分の持論を持つようになると、それを超能力のように他人が理解できないことが心の底では理解できていないので、理解できるはずだ、理解しながらも「私」を否定しているのだ、という歪んだ認識へと発展しがちになります。そうすると、相手を厳しく批判したり、責めたり、許せなくなってきます。さらに他人は境界線を知っているので、「あなたの意見は私と違う」と平気で、簡単に度々アピールしてくるので癇に障りまくりです。発達障害の自他の境界線がない精神世界を持続したままの側としては「信じられないことが起こっている」状態が頻繁に勃発するんですね。自分と他人といっしょくたにしている精神世界=自分そのものを、いきなり否定されるような根底をゆさぶる事態が日常的に発生しているわけですから、おかしくならないわけがありません。結果、不安が高じたり、対人恐怖症的になったり、暴力的になったりまします。



成人していてこれに気が付いていない人は、明らかに自分を傷つけそうな否定してくる存在には用心深くなり、一方で「自分と強くつながっていて、理解できるはずだ」と思い込む親や兄弟姉妹、彼氏彼女にはますますボーダーがなくなります。乳幼児期と同じことをします。


乳幼児期に、親を自分と精神的に区別をつけられていない子は、しつこくまとわりついたり言動が乱暴になったりと、定型一般の人にとっては「愛情を試しているのではないですか」と言われるような現象を見せたりします。これは私や発達障害の親族から見るとちょっと違い、「自分と同じにおいがする」「自分と同一の人間」と勝手に思い込んでいる場合に起こりやすいと思います。


しつこくされるターゲットになる人間は、子供の言い分をよく聞こうと努力してくれて、しかもあらゆることを許してくれるタイプ、叱るよりも受け入れることが多いタイプです。つまり、子どもの精神世界に全面的につながってくれる人です。思いのままにクレーンができる人間、子供が精神的に支配できる人間です。支配しようとしてやっているわけではありません。精神的なものというのは「手ごたえがない」ので、子ども側としては、どんどん要求して「かなった!やっぱりこの人は私の思うような人だ。思うようなことをして、させられて、心地が良い。」と確認して満足している状況です。自分と相手をまぜこんで、混同して自閉の世界に満足している状態です。ですので、第三者から見たこの子の様子は「ちょっとおかしい、逸脱している」という様相を見せたりします。過剰になれなれしく、過剰に押しが強く、過剰に興奮し、時には相手を舐めたり抱きついたり噛んだり蹴ったり暴言を吐いたりします。自分で自分をあやつっているのと同じ状態だと思っていますから、興奮して自分の頭を床や壁にゴンしたりばったばったと転げまわったり「あー!あー!」と叫んでいるのと同じ感覚です。自他を混同すればするほど、快感や満足から興奮してエスカレートします。際限のない自他の混同、限界のない混ざり合いはある意味底なしの恐れもともなっているため、子供を動揺させ、さらに安心と満足を得るためにエスカレートします。


もともと、人間は自分という存在をしっかりと確固たるものにしておかないと、不安定になり心身は健康な状態になりませんから、この自他混合という状態は子供にとって足元が盤石ではなく不安なのです。快感と満足が同時につれてくるものが「手ごたえをいつまでもどこまでも感じられない不安」なので、「自分は何であるか」を無意識に探して探して、探す過程でしつこさがエスカレートしていきます。



ここまで書くと、解決できるキーポイントがおわかりいただけると思います。先ほども書いた「自他の区別がつけられると、しつこさはなくなりますか、安定しますか。」とうことになるのですが、その通りだと思います。


子供達は、生まれ持った性質のままであれば、上記のような言動を見せてエスカレートしていきます。しかし、自分という自閉した世界に「あなたはそうなのね」「他の人はこうだよ」という区別を生活の中でいちいちつけて暮らしていくと、習慣のひとつとして区別しはじめます。以前書いたしつけの記事にその例をいくつか出したと思いますので、ここでは割愛します。そしてここが発達障害のこの育児と定型一般の子の育児の異なる点ですが、無理に他人と一緒にしない、一人の時間を大事に持たせてあげることが大事です。自分と他人を混同しやすい弱点を持っている子を、早くから集団社会に入れたり公園デビューで遊ばせたらどうなるか、もうご理解いただけると思います。混乱してよけいにエスカレートする可能性が大です。自他の境界線がないのですから、他人の物をうばったり、他害したり、会話しなかったり、マイペースで一方的で・・・そんなことも起こって当然なのです。


むしろ、一人の時間を大事にして、その子のオリジナリティーを確立し、他人とあなたは大きく違うのだ、と本人に自覚させるようにした方が自閉の子には合う気がします。他人に自分の領域を侵害されず安心して乳幼児期を過ごした子供は、その後成長していく時に他人の領域もなぜか理解しやすい傾向があるように思うからです。恐怖感や不安感が少なくなるのかもしれません。自分のポジションがしっかりと確立すると、他人がどうでもひきづられることが少なく、不安がないから他人に精神的に混同して依存することもなくなりますし、自分というものがわからず、決められず、不安なあまりにあらゆることを他人に任せて自分を放棄してしまうようなリスクも少なくなります。人間関係が、精神的に自立した物同士として対等で安定したものとなります。夫のように、成人してから自他の精神的区別ができるようになった場合でも、他人に振り回されることがなくなり、怒りが沸かなくなり、心が安定し人間関係が大幅に改善したりします。自分を知るということと、同じ根源ですね。



乳幼児期の「自分と他人の境界線」が曖昧な状態と、そこからくる問題、現象について書いてみました。上手く説明できず、無駄に長くなってしまいましたがご容赦いただたらと思います。




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