もう一度、その手に触れたくて(1) | 読書セラピー(幸せのページ)

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木に吹いた風が緑色になるように
花に吹いた風が芳香を運ぶように
風に言葉を託して届けます。

「おとうさん、何やってるの! 早くあがってきて!」

大きな声で妻の文子さんが叫んだそのとき、
窓の向こうから、地を這うようにスーッと近づいてくる黒い影がー
「まさか」と思っていた津波です。

(今、私が見ているのは現実? それとも幻?・・・)

一階はすでに冠水し、ご主人の腰のあたりまで来ていました。
水をかき分けるようにして、階段に近づいてくるご主人。

(どうか、どうか、間に合って!)

けれど、夫婦の手がしっかり結ばれたと思った、そのとき、
別の方向から突然、猛烈な勢いでやってきた津波に、
ご主人はあっという間に呑み込まれてしまったのです。

たった今、そこにいた夫がいなくなった・・・。
たった今、つないだ夫の手が、そこにない・・・。

それが何を意味しているのか、当時は分かりませんでした。

逃げ場はもう屋根の上しかない、
彼女は無我夢中で二階に戻り、
「じいちゃん、ばあちゃん、屋根! 屋根の上にのぼろう!」
と叫びます。

ところが、義父は首を横に振り「いいから早く行け」と。
義父の前には、ペタンと座り込んだままの義母がいました。

気づいたときには、屋根の物干し台にいた文子さん。

(いったい、何が起きたのか・・・。
にぎやかだった商店街が、今は一面の黒い海)

不気味なくらいの静けさの中、
心が壊れてしまったという彼女。

(何も考えられず、泣くこともできない。
みんな、どこへ行ってしまったの?)

東日本大震災の夜、月だけが異様なほど美しく輝いていました。

つづく

出典:『あなたへの恋文』(菅原文子、PHP、pp.12-29)


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