大きな声で妻の文子さんが叫んだそのとき、
窓の向こうから、地を這うようにスーッと近づいてくる黒い影がー
「まさか」と思っていた津波です。
(今、私が見ているのは現実? それとも幻?・・・)
一階はすでに冠水し、ご主人の腰のあたりまで来ていました。
水をかき分けるようにして、階段に近づいてくるご主人。
(どうか、どうか、間に合って!)
けれど、夫婦の手がしっかり結ばれたと思った、そのとき、
別の方向から突然、猛烈な勢いでやってきた津波に、
ご主人はあっという間に呑み込まれてしまったのです。
たった今、そこにいた夫がいなくなった・・・。
たった今、つないだ夫の手が、そこにない・・・。
それが何を意味しているのか、当時は分かりませんでした。
逃げ場はもう屋根の上しかない、
彼女は無我夢中で二階に戻り、
「じいちゃん、ばあちゃん、屋根! 屋根の上にのぼろう!」
と叫びます。
ところが、義父は首を横に振り「いいから早く行け」と。
義父の前には、ペタンと座り込んだままの義母がいました。
気づいたときには、屋根の物干し台にいた文子さん。
(いったい、何が起きたのか・・・。
にぎやかだった商店街が、今は一面の黒い海)
不気味なくらいの静けさの中、
心が壊れてしまったという彼女。
(何も考えられず、泣くこともできない。
みんな、どこへ行ってしまったの?)
東日本大震災の夜、月だけが異様なほど美しく輝いていました。
つづく
出典:『あなたへの恋文』(菅原文子、PHP、pp.12-29)
