松江城
島根県松江市殿町1-5


手前には、島根県庁。



島根県庁に騎馬像❗️



顔をよく見ると、案外幼い顔をしている👀



松平直政公像


 松平直政公は堀尾氏3代、京極氏1代の後、寛永15年(1638) に 信州松本から出雲国松江藩主として入国。富国・立法等の大綱を示し、政策・文武の奨励・産業奨団により「城下町松江」繁栄の礎を築いた、松江松平家初代藩主である。


 この銅像は、徳川家康の孫にあたる直政が、慶長19年(1614) 大坂冬の陣において、家臣とともに大坂の真田丸進撃した、弱冠14歳の初陣の姿で、真田幸村は、若武者直政の勇猛果敢な戦いぶりとその家臣の忠義を称え、 軍扇 (松江神社蔵)を投げ与えた。


 昭和2年(1927) 米原雲海制作による直政公初像(台座は建築家 伊東忠太設計)が、 松江城本丸に建立されるも、昭和18年戦時により供出。 

 現在の銅像は平成21年 (2009) 11月3日、松江開府400年祭・ 市制施行120周年を期し、再建されたものである。像制作は二科会 理事倉澤實氏、台座は昭和2年当時の石材を使用している。


なるほど、14歳の時の姿だから若々しいのね❗️


若武者 松平直政の真田丸進撃の像!




像があるのは、県庁だけではありません。



入り口の前。


ここにもカッコいい像❗️
こちらは渋いお殿様。


松江開府の祖 堀尾吉晴公 
堀尾吉晴公銅像建設委員会

 天文十二(一五四三)年、堀尾泰晴の長男として尾張国御供所村(愛知県大口町)に生まれた吉晴は、幼名を仁王丸、長じて小太郎と称し、次いで茂助と改めた。父の仕えた岩倉織田氏が 織田信長により滅ぼされると、早くから豊臣秀吉に仕え、長篠の戦い、備中高松城攻めに活躍し、山崎の戦いでは天王山を占拠して明智光秀を敗走させた。
賤ヶ岳、小牧・長久手の各戦に武功を樹て、秀吉の下で近江国佐和山四万石、遠江国浜松十二万石へと出世した。朝廷春宮坊護衛の長官を意味する帝刀先生にも任ぜられ堀尾寺刀と称した。 容貌端正、性格温厚で仏の茂助と呼ばれた反面、戦場では勇敢に戦い鬼の茂助とも呼ばれた。 秀吉の信任厚く、政務仲裁役である三中老の一人に任ぜられた。 
 秀吉没後は徳川家康に与みしたが、三河国池鯉鮒の刃傷事件で重傷を負う。 家督を継いだ子の 忠氏が関ヶ原の戦いに出陣し、その功で出雲・隠岐二国二十四万石を与えられた。 父子は尼子氏の 旧城富田城(安来市広瀬町)に入るが、広い城下が見込め、交通の要衝である松に拠点を移す。ことを決める。城地をめぐり父子で意見が分かれたが、忠氏の急死後、吉晴は子の志を継ぎ、亀田山に城を築きその麓に城下町を造ることを決意する。 
 古晴は秀吉も認める普請上手で、北の丸で指揮を執ったと伝わっている。慶長十二(一六〇七)年に着手し、五年目、城下の完成を目前に六十九歳で没した。

 この像は、松江城の落城とその城下造成を指揮する、吉晴の姿である。

あら。城づくりを指揮している姿なのに、完成前に亡くなってしまったのね、悲しい😭



でも見て!
入口でこうして、お城の方向を指してる姿、めっちゃカッコいい✨

松江城は、松江城に入る前からカッコいい像2つに会えるって良いなぁ✨✨


そして…

武士がいます!


『ばけばけ』では武士の世は終わったことになっているけれど、実は、松江城に行くと武士に会えたりするのですよ😆😆😆



それにしても。
『ばけばけ』のお父さん、いきなり兎で商売始めて「いやいや、そう簡単に上手く行かないから💦💦💦」って、見てるこっちがハラハラ。
で、お客さんいっぱい来てて「上手くいくんかーい!」って肩すかし。
…そして、「やっぱりコケますよね、そうですよね」となる。

お父さん、一家で丑の刻詣りをしたり、兎の商売始めたり、変に思い切りが良いと言うかなんというか。
見てる分には面白いけど、実際に父親がこんなだと大変💦
でも、だからこそ娘がしっかり者に育つんだという説得力はある。

子役の女の子が良過ぎて、子供時代が長く続くことを願ってしまう。
けど、それじゃあいつまで経っても小泉八雲が出て来ないので、それもちょっと違うよね、と思うのでした。