キンキーブーツの中で
チャーリーとローラ
(この時は男装、そして
本名のサイモンで登場)
が奏でる劇中歌
そこには
こんな歌詞がある。
“父さんの期待に答えることも
他人を演じることも疲れたの"
自分の中の
記憶や思い出や
様々なものがリンクし
歌詞がダイレクトに
体中に染みていく。
僕は思うんだ。
"苦しみというもの"の多くは
ここに集約してるんじゃ
ないだろうかと。
誰もわざわざ
大好きな人を悲しませたり
傷つけようなんて思わない。
その期待に、望みに、
想いにこたえたい。
だからこそ
悩み 嘆き 藻掻く。
そして疲弊し
いつかどこかで対峙する。
いつかどこかで粉々になる。
思えば僕も疲れたのだ。
7年越しの片想いに幕を引き
自分という存在を否定された、
そんな気持ちになっていた当時。
何処へも向けられない
やるせなさと怒りと
そんな感情は、
家族や友人へのカムアウト
と言う形をとって終息し
そこから僕は
自分ではない誰かを
演じることをやめていった。
僕がこうじゃなかったら
あの人は受け入れて
くれたのだろうか
このままで
受け入れられない
僕は一体何者なんだろう
そこで僕の何かが
一度壊れ、終わる。
けれど、あるいは、
それがあったから
始まったのかもしれない。
誰かのために生きるのも
他人を演じて生きるのも
疲れたなら
やめてもいいと思う。
やめることで
始まる何かもあるから。
こたえられないことで
自分の価値が決まることもない。
自分の価値を決めていくのは
自分で選択していく
人生の中にある。
だから
疲れたからやめる
という選択肢もあるし
疲れたけどまだやる
という選択肢もある。
どちらにせよ
自分で選べば
世界の見え方も
変わっていくし
俄然"参加型"な
自分の人生に
なっていく
いくつにも別れた道を
自分で歩いていくと
どこかには
実がなる枝も
あったりするものです。
トマト、ついに実が🍅
役者がその役に
命を吹き込むように
自分という主役に
命を吹き込めるのは
自分だけだ
"誰か"
になれるというのなら
"自分"にだって
きっとなれるよ。
幕を上げて
どんな自分も引き連れて
行こう。


