石川幾太郎氏は、茶葉から転じて製糸業を興し、一代で県外資本にも負けない
優良地場企業に育てた人だったそうです。
機械製糸により高品質の生糸を生産し、ネクタイ用に米国へ輸出して繁栄した
こともあり、この西洋館は、視察に訪れた米国人らの接待、宿泊用の迎賓館として
建てられたもので、「みくびられないように」と、ことさら贅沢な造りに拘ったのだそう。
そんな迎賓館だった建物は、戦後、米軍に接収され、この建物の中に、一時は3家族が
暮らしたそうなのです。
その時に増設された、個別の玄関などが今も残っています。
・・・というお話を当日は、「へ~」と聞いてたのですが、入間市というのは、結構内陸にあるので、
「どうして、ここに米軍が?」と思って調べてみました。
というのも、地方に残る洋館は、接収をまぬがれたものも多かったのを見てきているので。
一代で築いた製糸業でしたが、大正12年の関東大震災により、横浜港の倉庫にあった生糸が
焼失し、資金繰りに苦労するようになっていたところに、昭和初年の金融恐慌、昭和4年の世界
恐慌と続いたため、経営難となり、昭和6年頃から、工場などの整理が始まったそうなのです。
入間市駅を西洋館の反対側へ15分程歩いたところにあった、女工さん達の食料をつくっていた
農地20万坪を、昭和8年に磯野商会が取得したんだとか。
その後、直ぐ側に、昭和14年陸軍士官学校(後に、陸軍航空士官学校)ができ、磯野家は、
将校のための家屋を50戸つくり、陸軍に貸し出したのだそうです。
終戦後、その士官学校の場所に、GHQが進駐し、「ジョンソン基地」と名前を改め、1950年から
朝鮮戦争が始まると、米兵用の宿舎が不足したため、政府からの要請で、米軍ハウスを建てて、
基地へ貸し出していたんだとか。
朝鮮戦争は、距離的にも沖縄の米軍基地や、せいぜい九州から飛んでいたのかと思ってましたが、
関東にも、そんなに多くの米兵と家族がいたんですね。全然知りませんでした。
この基地周辺やその移動コース上に住んでいた人たちは、終戦直後だったら、米軍の飛行機や
ヘリコプターが飛んでいただけでも、身のすくむ思いをされていたのかもしれないなと思いました。
そして、今も、その面影を残す、ジョンソンタウンと呼ばれる一角が残っているそうです。(というのは、
昨日調べたので、寄って来てませんが)
同様の街並みが、入間市以外にも、福生や立川にも残ってるんですね。
福岡の大刀洗陸軍飛行学校の周辺には、そういうものは何も残っていなかったので、戦争当時から、
どの施設を残し、どの施設を壊滅させるというのが、明確にされていたんだな・・・と改めて思いました。
ここまで調べて、何故、旧 石川組製糸西洋館が米軍家族に貸し出されていたのかが理解できました。
ジョンソン基地は、1978年に日本へ返還され、今は、航空自衛隊入間基地になっていて、西武線で
入間市駅へ向かう途中、電車からも基地の様子が少し見えます。
ここもタイルの配置が変わっていますので、何か改築したのでしょうね。
建物の背面にも出入り口が作られていました。
建物の基礎部分に厚みがあるので、下りやすいよう石が置かれているのがわかります。
西洋館レポは続きます。





