和田家文書の中から、面白いと思ったものを私なりに現代語訳して紹介しています。

「伊達政宗はどうしても安東船が欲しい」のつづきです。


伊達政宗は秋田実季から安東船の図とマルコポーロの航海図や地図、歴史書を手に入れることが出来ました。さて‥




伊達政宗がとくに心躍らせたのは、山靼書に書かれていた紅毛(赤毛、白人のこと)国図解でした。政宗は常に西洋の最新の知識を得ることを喜びとし、得た知識は直ちに試してみるのでした。

そしてその任務には、支倉常長を通して秋田氏の推薦で招かれた徳川家康の六男・松平忠輝を共にして西洋の人々と接したのでした。


朝鮮討伐船造船のために安東氏から譲り受けた史書をキッカケに、政宗は遥か海の向こうの国とも交易をしたいと望むのでした。

領内には海岸があるので政宗は藩をあげて湊を造り、運河を築き、天然の地形に恵まれた月浦湊・月浜湊・石巻湊を築き上げました。

そして西洋に向かわせる船には、秋田杉・東日流羅漢柏などの材木を集め、秋田氏から土崎湊の船大工27人を呼び、安東史書にあった二柱斜柱三本のサン・ウアン・パプチスタ号を完成させました。


※画像お借りしました。


支倉常長以下140人、南蛮人40人を乗せて、月浦湊から出港したのは慶長18年(1613年)6月7日のことでした。



その翌年には大阪冬の陣、元和元年(1615年)には大阪夏の陣で東軍が勝利しました。
時同じくして、支倉常長はローマ法王に謁見し政宗の書状を献上したのでした。

そんな事など知るはずもなく家康は亡くなり、紅毛人との交易を内諾した松平忠輝は元和2年(1616年)に改易(国替)されました。寛永8年(1631年)には秋田実季もまた改易され、共に伊勢朝熊の地に蟄居(謹慎)の身となってしまいました。
理由は「関ヶ原の合戦の不参戦」とのことでしたが、両者とも納得出来ず徳川秀忠(2代将軍)を恨んだとのことです。


文政5年(1822年)8月2日  竹島常郷

(和田家文書コレクション 丑寅風土記 第全六ノ六より)



サン・ウアン・パプチスタ号」だって。
宮城県石巻市に原寸大で復元した船ありましたよね。
こちらは「サンファンバウティスタ号」ですね。
貼ってある画像がそれですが、残念ながらもう解体されてしまったそうです。
このおっきな船、一度見に行きたかった〜えーん
でもでも、4分の1 復元船がこの秋公開されるそうです。楽しみですねラブ今度こそ!


支倉常長はローマ法王に会ってるなんて凄いですね。同行した南蛮人が仲介してくれたのでしょうか。それとも、あんな大型船で乗り付けられたら邪険に出来ない⁉️
政宗の書状には何と書いてあったのでしょうね。


次回へつづきます。

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